第二部 伝えたい幸福の道しるべ16の事柄

アバウトなのが人生、先のことはわからない

支えたり、支えられたりしてようやく人へ愛を与え、または分けてもらい、力を合わせながら生きている。人生の経験は確立しないと感じる。アバウトでもそれぞれの家庭にとっていずれ妥当ならば間違いではないと感じた。

誰かが出した答えは提案であり、正解ではない。誰かに伝える答えも提案でしかない。家族の定義も答えはない。答えや型にはまろうと努力することは少なからず必要であっても我が家にとっては会話はできるけど、子どもと追いかけっこをしたり、家事に参加できなかったりするお父さんは役割がゼロなわけではない。

誰かがやれることを一緒に補い合うことが我が家では家族の役割を果たしていると考えている。誰のことであろうが自分の考えているものさしでは測れないし、測ってはならない。程よいからこそすべて充実に向かうのだろう。程よい愛情だから、子離れも親離れもできるかもしれない。役割を全うすることで得られる地位はあっても、目に見えるくらい縛る人生になるだろう。

子どものときにできた素直な行動を大切にする日を設けても、子どもには冷ややかに接しない。喜びに満ちた母を見たら一緒に笑いが舞い込むだろう。アバウトに生きているほうが、穏やかに人を見られるだろう。

失ったと思わない、道は続いている

夫が胸下から完全麻痺。だけど、内臓は普通に動いていて排泄物も出る、コミュニケーションを取ることは難なく良好だ。何を失ったかを考えるとどんな人でもどこか欠けている。

完璧な人はいないとはよく言ったものだ。完璧なんかただの理想だ。理想ばかりだから小さな現実の光でも見失う。夫婦の営みをできなくてもいい。そんなことなんか考えずにいた。すでに三人子どもがいて良かったねと言う人もいた。営みをどうするか尋ねる人もいた。これからどうするか聞いてくる人もいた。あなたが大黒柱になると言ってきた人もいた。

人の不安と私の不安に温度差があった時期だっただろう。