第3章 山心の発展期

【雲ノ平】 北アルプス最奥を歩く ~1985年8月(48歳)~

薬師沢小屋から雲ノ平山荘​

8月6日、薬師沢小屋。午前6時30分に出発。すぐに吊り橋を渡った。下を流れるのは黒部川。

「綺麗な水だね。久我さん!」
「川底の石が一つひとつ見えますね」
「もうこのあたりは黒部川の源流に近いんだね」

昨日、太郎平小屋から薬師沢小屋まで3時間下ったが、今日はそれを取り返すような急登だ。ただ、山好きの者にはこのきつさが心地良い。木の根が絡み合うような坂道を何度も繰り返し登り終わると、突然平らなところに出た。

広い湿原だ。城の石垣を築くような石が散らかっている。いたるところに這松があり、大小たくさんの池塘(ちとう)がある。池塘は湿原の泥炭層にできる池沼だ。そのなかに敷かれた木道を進むと、アラスカ庭園があった。

シラビソ疎林を過ぎると、奥日本庭園、アルプス庭園、ギリシャ庭園など次々に名札が現れた。

蝶が舞う。雲が走る。風が冷たい。周りを見渡すと黒部五郎岳が印象的だ。

巨人ガリバーが富士山の右斜面の上にスプーンを突き刺して、左斜面下に削り取ったような形をしている。氷河がつくったという。

雲ノ平山荘に午前10時30分到着。私はまず山荘の人に声をかけた。

「水をください」

男は頭に被った手拭いを取りながら、「水は売っていませんので、水場まで行ってください」と言う。どこの山小屋でも、水筒に1本200円前後で売っているのに。1泊2食の宿泊料5200円支払うと、山荘の主人は水場を教えてくれた。

私たちはザックを小屋に置いて、水筒だけ持って水汲みに出発。木道を30分歩くと、爺ヶ岳のすそ野にキャンプ地があって、そこには湧水が溢れていた。

水筒に1本の水をゲットするために、往復1時間歩いたという経験は、これからも二度とないだろう。蛇口を捻れば水が出る毎日の生活。貴重な体験だった。

水汲みを終えて山荘に着くと、宿泊客はさっきよりも増えていた。小さな体育館のような部屋に、10人くらいが布団を敷いて自分の縄張りを確保している。

私たちは新入りのように少し離れて場所を確保し、昼食にした。まだ午後12時10分だ。たくさんある午後の自由時間が嬉しい。

再び爺ヶ岳に散歩登山に出かけた。久我さんは白いシャツ。赤い背中のデイパックが茶色の石と緑の這松の風景のなかで絵になる。

爺ヶ岳の頂上に立つと南側は急斜面になって落ち込み、真んなかを黒部源流がチョロチョロ流れている。大きな風景を眺めていると、二人連れの若い女性が登って来た。代わりばんこに写真を撮りあっている。関西弁だ。

(撮ってあげればいいのに)

24歳の久我さんが話しかけるチャンスだと思った。

(写真を撮ってあげたり、住所を聞いたりしないのか?)

妻と二人の子を持つ48歳の私はじれったかった。24歳の理科教師は、女性よりも高山植物に夢中だ。分厚い植物図鑑を手放さない。

(人それぞれだな)

散歩を終えて広い体育館のような山荘に戻り、横になる。夕方が近づいて来た。

久我さんはカメラを、私は8ミリカメラを持って、山荘のすぐ北に広がる高台に向かった。「奥スイス庭園」だ。奥スイス庭園で三脚を広げて落日を待つ。

太郎兵衛平方面に沈む夕日が少しずつ空を染め始める。赤い空の下に富山県があり日本海があるのだ。落日風景を撮影し終わると、山荘に戻ってビールと夕食。外では名も知れぬ虫の声がにぎやかだ。

[写真] キャンプ場まで水汲みに。遠くに雲ノ平山荘。
※本記事は、2019年9月刊行の書籍『山心は紳士靴から始まった』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。