【奥白根山(栃木・群馬)季節の移り変わりを感じる 1990年10月

尺八の音が聞こえる夜が白々と明け始める風景は、いつどこで迎えても良いものだ。新しい気持ちが湧いてくる。

関越自動車道を沼田ICで降りて、鎌田を抜け紅葉盛りの山峡の道を走る。丸沼を過ぎると菅沼が見えた。ギアを入れ替えて蛇行しながら登ると、菅沼茶屋に着いた。ここが菅沼登山口だ。

草津白根山に対して、こちらを日光白根山と呼ぶ人もいる。茶屋を出発すると、前方遥か高い稜線は上半分が雪だ。落葉した木立のなかを登っていく。白樺の枝に積もった雪が凍って、朝日のなかでガラス細工のようにキラキラ輝いて見える。

右側を登りあげている斜面が座禅山。草丈40センチメートルほどの茶色に立ち枯れた茎が、雪のなかに林のように見える。シラネアオイの冬の装いである。

花の名前にシラネ何々とかハクサン何々などと名前が付いたものが多いが、植物学者がその山で最初に見つけたのが日光の白根山と加賀の白山だったので、その名前を付けたらしい。

座禅山の左裾に池があった。雪原のなかで凍ってない池半分がやけに目立つ。目の前には高く険しい奥白根のドームが立つ。池畔の道は木道になった。何か音がする。耳を澄ませてみると笛の音らしい。

深い雪に足を取られながら、急降下の道を終えると、五色沼に出た。遠くに岩に腰かけた人がいる(あの人が吹いているのか)。

雪のなかの靴の踏み跡を数えると、歩いた人は二人らしい。私は尺八を吹いている人の近くまで来た。男が一人、岩に腰を下ろして『荒城の月』を吹いている。

私は50メートルほどの距離を置いて、岩に腰を下ろした。尺八の音が水面を渡り、雪のなかに吸い込まれていく。あの人から私まで優雅な時間をもらっていると思った。野兎のフンがところどころに落ちている。

樹林のなかに小屋が見えた。私は小屋の前にザックを下ろして、戸の開いている入り口から小屋のなかを覗き込んだ。

「こんにちは!」

建物の二階にテントがひと張りあった。家のなかに家。寒さを防ぐためだろう。

「夕べ泊まられたんですか?」

私は小屋のなかのテントの男に話しかけた。

「ええ……」

「寒くなかったですか?」

「いや~寒かったですよ。でも、けっこう眠れました」

「一人ぼっちで寂しくなかったですか?」

「この小屋で何人か一緒になるだろうと思っていたら、僕きりでした」

男は30代前半か。山のなかで孤独と戦いながら一夜を過ごすのも、山男は好きなのだ。