逸文に見る神武東征

五ケ所湾の石城に拠った伊勢津彦を、今度は神武軍が攻撃してきた。「国譲り戦」の重要な戦闘場面であるにもかかわらず、『記紀』にはこの記録がない。紀伊山地を横切って、熊野から大和盆地の東側「宇陀(うだ)」に向かう神武東征軍の本隊。その困難さは、八咫(やた)(がらす)などが登場する神話世界として描かれるが、熊野灘を伊勢に東進した分隊のことは出てこない。だからこの『古風土記逸文』が残されていなかったら、分隊長の「(あめの)()(わきの)命」や迎え撃つ伊勢津彦側の行動は不明のままであった。この戦いについて逸文は、①「伊勢風土記に曰く」と、②「或本に云はく」の両説を記載している。

逸文を簡潔にまとめて一覧表とする。まず①の概要である。

天御(あめのみ)中主(なかぬしの)尊の十二世孫が、天日別命である

・伊勢國を治めたのは、天日別命である(当初は猿田彦が治めていた。その後は伊勢津彦が統治)

・天日別命は神武東征に従軍して、紀伊国の熊野の村に到った

・神武天皇は金鳥の導きで、菟田(うだ)(宇陀)下郷(しもつあがた)に到った

・此処で天皇は、生駒(いこま)長髄彦(ながすねびこ)に対し、大部日(おほとものひ)(おみの)命を差し向け

・天日別命には、天津方(東方)の国を平定せよ、と命じた

・その東の国は、伊勢津彦が治めていた

・天日別命は伊勢津彦に問う、この国を天孫に献上するかどうか

・伊勢津彦は、これに従わず

・天日別命が征討軍を発する時に、伊勢津彦は天孫への献上を認めた

・伊勢津彦は八風(やかぜ)を起こし、海水(うしほ)を吹き上げ、波浪(なみ)に乗って、信濃国に去った

    (ただし伊勢津彦の子孫は、相模や武蔵などの国造となって、関東南部に多い)

・天皇は伊勢津彦から得た国を、彼の名に因んで伊勢と號づけた

・天皇は、天日別命に伊勢を治めることを命じ(伊勢国造に任命)

・さらに天日別命は、大倭耳梨(やまとのみみなしの)村に宅地(いへ)を賜わった

次に②である。

・天日別命は神武本体と別れ、熊野の村から直接、伊勢の国を目指した

・荒ぶる神を殺し、従わない者を罰し、山川を境界にして、(くに)や村を定めた

・その後、橿原宮(神武)に復命した

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