ぼくの地球

第一章 目覚め 春

個の可能性、それがここでは主語となっている。普遍的な価値によって満たされた目標、それは入れ替わるものではなく、繰り返されるものである。したがって、彼は決定権を常に確保するために、善であることを希求するのである。

──もし幸福を人生の基準とするならば、その計測器はぼくの内側にしかなく、そこでは「何を」ではなく「如何に」その対象を認識するかによってすべてが決まる。

瞬間は永遠と一体であり、また瞬間は過去と切り離されている。そして、物事には常に二つの側面があり、そのどちらかだけをとっても真実には辿り着けない。

だから私たちは、そこにある罪に関しては例外的な状況にあるものを除き、一定の寛容さをもって見つめるべきであり、またおおよそ負の出来事というものは、その裏側を知ることによって、それまでとは真逆の捉え方をすることがしばしば可能であり、そしてそのことが、彼の言動のほぼすべてから霊的に感じ取ることができるのである。

瞬間的に判断しそれを主体的な行為に結び付ける。

それがプラスに転じるか否かは、9割以上運任せなのだが、彼は言う。

──ここを楽天的に捉えることは可能だ。日常のすべては認識によって評価される、つまり主観的に、である。だから自分が何を好きで何をやりたいかが明確にわかっていれば、認識より前に言葉や行為があったとしてもそれを恐怖に感じることはあまりない。

また続けて言う。

──確かに運任せがマイナスに振れたままになる、つまり後悔が生じることもある。しかしその言葉や行為による負の感覚をある一つの概念を意識することである程度帳消しにすることはできる。「それは自分のためではない」である。ここにまた普遍が出てくる。彼は、これから生まれてくる人たちのことを言っているのであろう。ここはやや不思議なところだ。

彼は、すべてはぼくの認識の裡にあると言っているのだから、自分が死んだ後のことは、基本的には尚更のこと完全任意となるはずである。だが彼はそれを嫌うのである。

──私たちは後世に肯定的に評価されるべき何かを残さなければならない。だから人生には夢や目標が必要になる。なぜならば夢破れそこに喪失感が生じたとしても、それが覚醒のための一つのきっかけになるからである。

彼は一度だけだが、「塵、芥の中で眠れ」と言ったことがある。これはある意味彼の本音の究極にある言葉であろうが、保身や富といった現世的なものを100%排除したところにのみあるものに、彼は何らかのインスピレーションを見出していたのであろう。

主体的であることが、個の認識を常に事実に優先させることが、そこに善を伴っている限り、排他的であるにもかかわらず、普遍的な価値を宿す前提条件の筆頭に来る。そろそろ言わねばなるまい。彼はこの地球という惑星について次のように言っているのだ。