ぼくの地球

第一章 目覚め 春

もう少し彼に関する考察を続けよう。

誰でもそうだが、行為のすべては完結を目的としている。だからそこには意思の作用が認められるのである。だが彼の場合そこに求められるべき合理性が、他の人々とはやや異なっているのである。

彼には明らかに神秘主義に対する傾倒が見受けられる。そのため、彼は統計やまたは傾向と対策といった概念をかなり強く否定しようとしていた。というのも普遍的な価値の絶対優位は、そこに如何なる諸事情が差し挟まれようとも決して揺らぐことはないからだ。

ここでまた瞬間と永遠とがつながっているという彼独自の哲学が出てくるわけだが、たった一つの善という条件を見事にクリアすれば、ここは実は容易に理解され得るべきところだ。だから、彼がこだわる絶対性が排他的であるにもかかわらず説得力を持つのである。

善という永遠、そしてそれに通じ得る一つの行為。

この善は調和とも言い換えることが可能なものだが、しかし彼がその絶対性によって迷いを排除することにほぼ成功しているために、彼の判断と行為、そしてそれに続く完結までの過程のすべては、時間の有効的な活用とも合致し、少なくとも一つの人生の究極の理想を私に想起させる。

彼は人生の対象を知ることの重要性を知るとともに、「今」と「終着点」との間にあるべき一本の線(間違いなく一本しかない)に救いを見出そうとしているかのようだ。ここは、彼の目的のみならず、それへのアプローチの仕方も含めてということになるが、彼はジグソーパズルを一つ一つ埋めていくかのように、理性を拠り所にして、善のピースの組み立ての美学を実践しているように見える。そこでは善故に個別の事情が無意味化され、利のための序列の否定が決定的になっている。

そして彼は理想を三次元的に捉え、さらにそこに有機性を持たせようとしている(二次元的無機性が排除されている)。だからであろうか、彼は時間をゆっくりと贅沢に使おうとする傾向があった。彼の過去についてはまだ記す必要はあるまい。

だが一度レールから逸れてしまった場合、その人生を立て直すために必要な認識は、失った時間を取り戻すべく、彼は昨日よりも急がなければならないということである。

おそらく彼はそれに失敗した。そして一度失われた時間は、如何なる知恵を弄しても取り戻すことはできない。したがって彼には絶対が必要になったのであろう。

なるほど彼とて最初から善の必要性に気付いていたわけではあるまい。だが何らかの個人的な事情が彼を精神的な世界へと導いた。それは取り戻すためではなく、それどころかその逆、ぜい肉をそぎ落とすためであった。だから彼は次の言葉から遠いのである。