ぼくの地球

信仰

私は今、利便性の向上による限界点は思いのほか低く、少なくとも幸福を人生の基準に据えるのであれば、回帰の必要性を私たちはどこかで感知しなければならないと、述べているわけであるが、自由や平和の概念を安易に理解しようとすれば、間違いなく嵌まるであろう陥穽に、私はある耳障りの悪い言葉によって対抗しなければならないであろう。

それは「排他的」であるということ

もし平和の必須条件の一つに「共存」を掲げるならば、彼は陥穽に見事に嵌まっていると言わざるを得ないであろう。

私はむしろここでは「住み分け」を主張したい。「私と彼は違う。しかし自由で平和な環境の下で、互いの個性を最大限発揮したい」と考えているならば、住み分けを前提としたルール作りを優先させるべきだ。

ここには精神的な意味での壁がある。ここは誤解が生じやすい箇所であるので、表現に気を付けなければならないが、自由というものは、個の可能性を追求する権利を担保するためにこそある、と定義付けられるのであれば、私たちは、それぞれの目標設定に応じた「自」と「他」を区別する隙間の確保に、まず気を配らなければならない。

なぜならば、そうすることによって、脈絡が担保され、然るべき秩序が、結果的にせよ維持されるからだ。そこでは、個々人が、その能力に応じて有することができる裁量権を、可能な限り最大限に手に入れることができるため、住み分けのための壁が負ではなく、正の存在として認識されることになる。

だがそれが壁であることには変わりがないので、平和の必須条件に共存を掲げるような人々からは、当然の如く、排他的の烙印を押されるというわけである。

だがここは、こだわらなければなるまい。もし、万人に幸福を追求する権利が保障されなければならないのであれば、私たちは選択肢を確保するためにこそ、奔走しなければならないのである。そしてそれは「群れる」ことではなく、むしろ「離れる」ことによって達成される。

なるほど、ここは「個の確立」という表現を用いてもよさそうなところだが、しかし、信仰という言葉をすでに用いている以上、もう少し個性的であってもよいところであろう。

それはおそらく「認識革命」

そしてもう一つの言葉が想起される。