第三章 井の中の蛙井の中も知らず

日本人は神の国から遠いのか

反ユダヤ主義が憑依した日本宣教論

さて、A.D.三一三年にローマの異邦人がミラノ勅令により禁教を解き、A.D.三九二年に国教と定めて以降、ユダヤ人抜きのキリスト教というものが始まりました。当初はユダヤ教の分派くらいにしか見られなかった「ユダヤ人のキリスト教」も、今やローカル宗教を脱し地中海世界を股にかけた「異邦人のキリスト教」へと進化し、グローバル化したのです。

ヘブライズム・キリスト教がヘレニズム・キリスト教へ、即ち、白人種御用達の世界宗教へと展開し、変容したのです。これが「西洋キリスト教」の始まりです。しかし事態はそれほど単純ではありません。

国を失って以来「南ユダ」のユダヤ人は「キリスト殺しのユダヤ人」というレッテルを貼られ、ヨーロッパ中に国際手配され、異邦人の手により殺戮され始めたからです。見つからなかったユダヤ人たちはできるだけ遠くへと、逃げていく他はなかったのです。ある見方をすれば、伝道しない民族宗教の「ユダヤ教」から伝道しかしない世界宗教の「キリスト教」へと、福音の「入れ物」が移動したのです。

また、ユダヤ人が異邦人に「軒を貸して母屋を取られた」という意味は、宗教的正統性までが奪われてしまったということです。例えば十二月二十五日をクリスマスだと勝手に決められたように、聖書解釈の主導権までもが異邦人に奪われ、キリスト教そのものが欧米化を始めたのです。

ちなみにキリストの誕生日は、十二月二十五日ではありません。それらを磐石とするための理論武装が、いわゆる西洋キリスト教の「神学」です。

ユダヤ人が伝統的に持っていた宗教的感覚や儀式の意味という非言語的聖書解釈のパラダイムは完全に失われました。それを知らない異邦人たちにより、別の思想までが接木されたのです。それはユダヤ性の喪失では済まない、とんでもない思想です。

聖書解釈における大局的枠組み、つまりは「カトリック」だ「プロテスタント」だとか、やれ「神の選び」だ「人間の自由意志」だなどと小難しいことを言い出す前の話です。その大前提ともいうべきところに据えられたものこそ、「反ユダヤ主義」というイデオロギーです。

神の一人子を十字架で殺したユダヤ人に対し「神は復讐を開始された」という出鱈目なプロパガンダです。その掛け声の下にヨーロッパ中を巻き込んだ、ユダヤ人への掃討作戦です。

民族浄化という名のホロコーストは、ですからナチス・ドイツとヒットラーが初犯ではなかったのです。それが西洋のキリスト教文化圏に通底する共通認識だからです。

人間的には極めて分かりやすい理屈ですが、その「大噓」をもって異邦人たちは自らを正統と唱え、十字架を掲げ、神の権威を笠に着てのやりたい放題だったのです。その巻き添えを喰ったのがイスラム教徒たちというわけです。

もしも神がユダヤ人を聖絶せよと命じたとすれば、仏心は無用です。良心の呵責を気にする必要もありません。全ては神の御心のままに、だからです。異邦人はその根拠として、だからこそ聖書の中に「その」理由を探したのです(マタイ27:11~25)。

原因と結果を逆さにし、文脈を無視して字面だけを拾い読みしようとすれば、あるはあるは、特に『新約聖書』はまるでユダヤ人撲滅キャンペーンの本かと、見紛うばかりです。ユダヤ人が新約聖書を決して聖書と認めようとしない理由は、そういう意味では分かるような気がします。

しかしそのように聖書を読ませようとする者は、人間ではありません。異邦人の背後に隠れ、彼らを操り、その「反ユダヤ主義」を吹聴し地上から抹殺しようと企んでいる者は、悪魔とその手下どもの仕業なのです(マタイ13:1~43)。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。