第三章 井の中の蛙井の中も知らず

日本人は神の国から遠いのか

神学以前の置換神学

ですから、西洋キリスト教という宗教は、成立以来文化的にも神学的にもその全領域において、反ユダヤ的通奏低音が響いていたのは紛れもない事実です。それがキリスト教という宗教に胚胎するサブ・カルチャーだからです。即ち、人種差別です。

これを合法化するために仕組んだ理論武装が、置換神学(replacement theology)と称される聖書解釈上の一大トリックです。では何を何に置き換えたのかというと、「イスラエル民族」を「キリスト教会」にです。さらに言えば「ユダヤ人」への祝福は全て、「キリスト教会のクリスチャン」への祝福に置き換えたのです。

そして「ユダヤ人」への呪いはそのまま「ユダヤ人」への呪いという、とんでもない話に摩り替えられたのです。異邦人にとって好都合だったのは、ユダヤ人が置かれていた当時の社会的背景でした。

イスラエル民族に属するユダヤ人は神の「選民」どころか、今や流浪の「賤民」でしかなかったのです。いかにも神に見捨てられた民族であると、異邦人の目には映ったのです。

神の体現者となるはずのユダヤ人たちが神の一人子であるキリストを十字架で殺したのは、紛れもない事実だからです。神に敵対する不信仰の故に呪われて当然と思われたのは、仕方がないのかもしれません。誰もが自由に聖書を読める時代ではなかったからです。

新約聖書を初めてドイツ語に翻訳し、「救いは信仰のみ」を掲げ、言語としてのドイツ語まで確定させた誉れ高きマルチン・ルターでさえ、晩年にはユダヤ人への呪いに満ちた論文まで書く始末です。あの宗教改革者が、反ユダヤ主義の先鋒になってしまったのです。

パウロからサウロに逆戻りしたかのような有様です。西洋人が考えたキリスト教神学というものを極論すれば、全てはこの置換神学の台座に据えられた聖書解釈術でしかなかったというわけです。ユダヤ人たちが一九四八年に突如イスラエル共和国をかつての地に建国するその時までは、この反ユダヤ的聖書解釈の伏魔殿を点検しうるような神学は、一切なかったのです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。