第三章 井の中の蛙井の中も知らず

日本人は神の国から遠いのか

反ユダヤ主義が憑依した日本宣教論

日本宣教において取りうる一つのスタンス、即ち従来通りの被宣教地の伝統や文化を考慮しなくともいいとするカール・バルト的宣教論が如何に非聖書的な発想であり、的外れな福音理解になりかねないということも、少しは考えてみなければなりません。

B.C.七二一年にアッシリア帝国により捕囚の身とされ、世界史の中から忽然と姿を消してしまった「北イスラエルの十部族」の人々が巷に噂される如く、もしも黎明期の日本に深く関わっていたとすればどういうことになるのでしょう。さらにはローマ帝国によるA.D.七〇年のエルサレム陥落に伴い「南ユダの二部族」の人々までがはるばる山を越え、地の果て「日出づる処」まで逃れてきたとの傍証まで出始めているからです。

またイスラエルの在留異国人、秦氏のような人々が古代日本に「渡来人」として大挙海を渡りやって来たのは、古文書に記されている通りです。法隆寺にある御物、古代ペルシャやアッシリア近辺の品々は日本人が出向いて持ち帰らない限り、彼らが一緒に持参したと考えるより他はありません。

そのような人々の尽力によって建国された国が、どうやら日本という国らしいのです。終わりの時代にそれがどのような意味に展開するのかという、神の配剤です。それが歴史の終末期における「イスラエル全家の回復」という聖書預言であり、「日本とイスラエル」における究極問題ではなかったでしょうか(エレミヤ16:14~15、23:7~8)。

そのような我が国の古代史に関し、等閑視を決め黙して語らずというキリスト教界(会)のあり方とは、これまた一体どういう理由なのかという問題です。宣教すべき対象の「日本」をあえて無視しようとする西洋キリスト教的伝道論とは、それらを余分な情報と見做し、排除する方向でしか聖書解釈せざるを得ないのは当然だからです。

殆どの日本人クリスチャンが日本に軸足のないデラシネであることは、今や誰もが知るところです。彼らに欠けているのは知識や信仰ではありません。日本が足りないのです。否、日本がないということこそが問題なのです。

ですから「すべてのことを、福音のために」というパウロの宣教論と、日本人のクリスチャンたちが西洋キリスト教におもねて掲げる宣教論とは、似て非なる別物であると言わねばなりません。そのために喧伝される常套句こそ、「ユダヤ人もギリシャ人もない」という恫喝であり、聖句の誤用です(Ⅰコリント1:24)。

故に「日本人もアメリカ人も皆同じ」という短兵急な聖書釈義なのです。しかし「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」(Ⅰコリント1:22)と双方の価値観が異なっていたのは聖書にある通りです。

「なぜ、むしろだまされていないのですか」(Ⅰコリント6:7)と神礼拝の中で聖書に語らせ、神の幼子たちを騙している前後不覚の牧師を目の当たりにしたこともありますが、似たようなものです。この宗教家もまた、次の聖句が教える「だまされてはいけません」(Ⅰコリント6:9)というパウロの警告が耳に入りません。聖書は「神のことば」だからといって、そのことを援用して自説を展開し他者の口を封じることや、かつてのプレスコードのような言論統制は決して許されるものではありません。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。