【前回の記事を読む】日本書紀に記された暦のズレを特定!問題解明の7つのステップ

序節 日本書紀の編年のズレ

第1節 6~7世紀の日本書紀編年の捏造表

編年を1年次繰り上げたり(ⅠとⅤ)、正しく編年したり(ⅢとⅦ)する場合、それぞれ特有の困難が生じる。

ⅠとⅤのように1年次を繰り上げるとき、例えば、旧辛丑年(642年)の事件であった舒明天皇の崩御を新辛丑年(641年)に編年し、旧乙巳年(646年)の事件であったいわゆる乙巳の変を新乙巳年(645年)に編年し、旧壬申年(673年)の事件であったいわゆる壬申の乱を新壬申年に編年するとき、名目上は不都合が生じないように見える。

乙巳の変は乙巳の変のままであり、壬申年の役は壬申年の役のままである。ところが、この期間において書紀記事と海外記事とを整合させようとすると、書紀記事を1年次引き下げて比較対照しなければ正しい対応がつかないという困難が生じることとなる。

他方、ⅢとⅦのように、正しく編年した場合には、旧干支年をもって記憶され伝承されてきた事件については、それが著名な事件であればあるほど、これを、新干支年へと1年次繰り上げて編年しなければ、後の記憶と齟齬をきたすという不都合が生じる。

そこで、こうした事件の幾つかについては、他の記事から引き離して、1年次繰り上げるという荒技が施され、書紀内部で、記事の相互関係に矛盾を孕むという困難が生じることになっている。

例えば、旧辛酉年(662年)に崩御した斉明天皇の崩御記事が、本来天智元年紀の中に編年されなければならなかったのに、新辛酉年(661年)に繰り上げて編年されたため、斉明天皇崩御の傍らで、救百済軍事が指揮進行せしめられるという奇怪な事態となっている。

例えばまた、旧甲子年(天智4年紀・665年)になされたいわゆる甲子の宣も、同時になされた百済人への授位記事(天智4年紀2月条)から引き離され、救百済軍事の戦後処理に大わらわであったはずの新甲子年(天智3年紀・664年)冒頭に繰り上げて編年されてしまっている。