また例えば旧戊午年(新己未年・659年)の事件であった阿倍臣による討蝦夷軍事のことは、斉明5年紀(新己未年)に正しく編年される一方で、新戊午年(斉明4年紀・658年)にも、重出記事として採録されて戊午年記事としての名目を保っている。

斉明紀・天智紀に見える重出記事の多くは、正しい編年と、名目上の干支年の双方の面目を保つために、意図的に作られた重出記事である。

なお、書紀は踰年称元法(先王の崩年の翌年を新王元年とする称元法)である一方、旧日本紀は崩年称元法(先王の崩年を新王元年とする称元法)であったと思われる。

以下、これらに関して検討し、冒頭の仮説を証明してみたい。繰り返しになるが、上の結論からすれば、例えば、従来645年の事件とされてきた乙巳の変は、実際には646年の事件であったのであり、672年の事件とされてきた壬申の乱は、実際には673年の事件であったのである。

(以上、旧拙著からの引用)

蘇我蝦夷・入鹿親子が中大兄皇子らによって滅ぼされた乙巳年、つまり大化元年は、これまでの教科書・日本史年表では、書紀の編年によって西暦645年であると信じられてきたが、実は西暦646年の誤りである。

旧拙著『日本書紀編年批判試論』は、そうした基本的事項を証明しようとしたのであったが、世間ではまだ大化改新の始まり、大化元年は西暦645年であったと信じて疑っていないらしい。これは今や、少なくとも私には、信じがたい光景である。

この旧拙著は、大化改新の始まりや壬申乱の年が旧来の西暦年より1年下にずれることを指摘したのみではない。

書紀の編年が、例外的な条目を除いてほぼそのまま信じられる傾向の強い6~7世紀部分(以下、拙稿で主として論じるのは推古朝以降で、ほぼ7世紀部分であるが)の書紀を歴史資料として扱おうとする場合、各条目の西暦年が1年ずれていないかどうかを、常に慎重に見極めながら用いなければならないという、かなり深刻な問題を提起しているのである。

旧拙著は少数部数発行の自費出版本であったせいもあり、いや一にも二にも私の力不足のせいであるが、この問題提起は世間に広がらず埋もれてしまった観がある。そこで以下旧拙著を補足修正して同じ主張を再論しようとするのである。

なお、旧拙著上梓の後、元興寺伽藍縁起并流記資財帳の本文の干支年が旧干支紀年法に従うことに気付いた。而してこれによって、欽明天皇紀から推古天皇紀までの編年批判のための材料を得ることができた。

ともあれ、ここで以下の議論に見通しを与えるため、欽明天皇の晩年から持統天皇紀までの書紀の編年の捏造次第としてこれまでに得た結論を一覧表として次に示す。