【前回の記事を読む】日本書紀成立の研究書に欠点が!? より正確な暦計算を試みる!

序節 日本書紀の編年のズレ

第1節 6~7世紀の日本書紀編年の捏造表

原古事記は天武朝に成立したものであり(現古事記は、写本過程における変容を除けば、この原古事記と分注・用字・異体字などを含めてほとんど同じものである)、この原古事記を基本に据えて、天武10年紀(681年)には川嶋皇子以下総勢12名によって編年体の国史が編まれようとしたが(故に原古事記のみならず、この国史も当然旧干支紀年法を用いている)、天武天皇の崩去によって編纂作業はとん挫。

その後、元明朝に及んでこの2本立ての国史編纂作業の完遂が図られ、和銅5年(712年)正月にまず太朝臣安萬侶によって古事記が献上され(古事記序文)、和銅7年(714年)2月10日には紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に詔あり、国史が撰定せしめられた(續日本紀。但し、これが撰定の完了を示す記事なのか、詔令の下されたことを示すだけの記事であるのかは不明)。

この国史がいわゆる和銅日本紀である。天武10年紀国史直系の編年体国史であったと推測され、天武10年紀国史と同様に、旧干支紀年法を保持する国史であったと考えられるのである。

これらの国史の編纂は、当時の朝廷における2大派閥のうち、反藤原不比等派によって主導されたものである。これに対して、親不比等派によって編纂され養老4年(720年)5月21日に舎人親王らによって奏上された書紀は、これら古事記と和銅日本紀とを敵視しつつ編まれた国史である(この間の朝廷政治史における派閥対立については拙著『国の初めの愁いの形――藤原・奈良朝派閥抗争史』〔風濤社1998年〕参照)。

書紀は旧干支紀年法ではなく、我が国が初めから新干支紀年法(現行干支紀年法)を用いていたかのように編年している編年体国史であり、そのため様々な矛盾・虚偽を抱え込むことになっている国史である。

さて、前掲旧拙著『日本書紀編年批判試論』では、持統4年紀以前の我が国の公用干支紀年法が旧干支紀年法であったという事実を、主に舒明天皇末年以降の書紀の編年批判を通じて証明した。すなわち旧著の冒頭に、まず結論を述べて、およそ次のように記した。

引用中、若干の字句を修正した。下で「旧日本紀」と云うのは、上に述べた通り、具体的には天武10年紀国史直系の日本紀であったと考えられる和銅日本紀を指し、旧干支紀年法を保持していたと思われる編年国史である。この旧日本紀における年紀には原則として「本来の」を冠して記す。

例えば「朱鳥元年紀は、本来の天武14年」であるなどと記す。なお、下の引用文にも述べてある通り、書紀はいわゆる踰年称元法であったのに対して、旧日本紀はいわゆる崩年称元法であったことに注意が必要である。踰年称元法とは王の崩年の次の年を次王の元年とする称元法であり、崩年称元法とは王の崩年を次王の元年とする称元法である。中国史書の称元法は前者であり、三韓の史書『三国史記』のそれは後者である。