序節 日本書紀の編年のズレ

第2節 我が国の暦法史概観・元嘉暦概論・儀鳳暦序論・後漢四分暦概論

☆2儀鳳暦序論

 

「後漢四分暦の修正版」の可能性を支持する事実として、主に次の3点がある。

 

  • イ)持統4年紀以前の我が国が用いていた干支紀年法は、顓頊暦直系の暦法に伴っていた旧干支紀年法であったと考えられるのであり、新干支紀年法を伴う元嘉暦がそれ以前に公用されていたとは考え難いこと。

従来、元嘉暦が公用とされていたならば、干支紀年法も新干支紀年法に切り替えられていて然るべきと思われるのに、事実は持統4年紀以前は旧干支紀年法が墨守されていたのであり、従って元嘉暦が公用されていたとは考え難いのである。

そのため、旧著『日本書紀編年批判試論』にも、旧干支紀年法を伴う、古い時代の我が国の暦術について、「顓頊暦同様の古い四分暦が暦元の修正を繰り返しながら、相変わらず用いられ続けていた可能性がある」と述べたのである(同著14~15頁)。

 

  • ロ)奈良時代における後漢四分暦の実用例が友田吉之助博士によって3例挙げられている。

 

  • ハ)昭和54年1月に発見された大安萬侶墓誌に記された暦日は後漢四分暦の修正版によって実現できる。

 

  • イ)の「持統4年紀以前の我が国が用いていた干支紀年法は、顓頊暦直系の、旧干支紀年法であった」ことは、これがまさに当稿で証明しようとする事項である。

 

  • ロ)とハ)については、以下、それぞれ節を改めて述べることにする。

 

☆3後漢四分暦概論

これまで言及してきた「四分暦」は、前漢武帝太初元年(紀元前104年)より前に中国で行われていた暦法一般を指す言葉である。伝説上の暦とされる黄帝暦・顓頊暦・夏暦・殷暦・周暦・魯暦と呼ばれる6暦はいずれも四分暦に属した(薮内清著『増補改訂 中国の天文暦法』1990年 平凡社刊 21~22頁)。

このうちの顓頊暦が秦王朝から前漢王朝の前半まで、0.5日=半日分の修正を施されつつ実用に供されていたことについては前節に述べた。

顓頊暦は前漢の武帝の時の太初元年(紀元前104年)まで用いられた後、太初暦に改暦される。太初暦は1太陽年を365+385/1539日、1平均朔望月を29+43/81日とする19年7閏月法に従う暦法である。

朔望月の定数により81分法とも称されるが、次表に見る通り、1太陽年、1平均朔望月ともに四分暦に比して僅かに劣る暦法であったのであり、薮内氏の説く通り、科学的には顓頊暦の暦元を修正して用い続けることで用は足りたはずである。