序節 日本書紀の編年のズレ

以下、拙著においては、日本書紀の紀年を示すのに、例えば推古天皇の29年条を示すとき、「推古29年紀」というように「紀」を副えて記述することにする。理由はやがてわかって頂けるようになる。

さて、書紀(以下、日本書紀を書紀と略す)の6世紀半ば以降、とりわけ7世紀以降の記事は、それ以前と比べて、比較的史実に忠実な記載がなされていると考えられる部分であるが、その中に、1年繰り下げるべき記事、あるいは1年繰り下げた方がよいと思われる記事が少なからず発見される。

推古29年紀(辛巳年・621年)の2月5日条に、廐戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)、つまり聖徳太子の薨去の記事がある(辛巳年〔かのとみの年〕は干支紀年法による年紀である。現行干支紀年法によって西暦年に換算すれば621年に当たる)。

ところが、よく知られているように、同時代史料と目される法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘には、聖徳太子は辛巳年の明年=壬午年・622年の2月22日に薨じたと明記されている。そこで聖徳太子の薨去年は、後者によって西暦622年が正しい年であろうとされている。故に前者、書紀記事の方は1年繰り下げなければならない。舒明2年紀(庚寅年・630年)の8月5日条に、第1次遣唐使派遣の記事がある。

ところが『旧唐書』倭国伝によれば、貞観5年(631年)条に倭国の遣使記事がある。従来説では、前年の8月に発遣された使者が翌年になってようやく唐の太宗に謁見したと見做されているが、謁見の遅れた理由が不明である。これも書紀記事を1年繰り下げた方が合理的である。

皇極元年紀(壬寅年・642年)の2月21日条に、高麗(こま。高句麗〔こうくり〕のこと。朝鮮半島には当時、北に高句麗、南東に新羅〔しらぎ〕、南西に百済〔くだら〕があった。いわゆる三韓である)の使者が「去年」生じた泉蓋蘇文によるクーデターを報告している。

書紀によれば「去年」は641年になるが、三韓側の史書である『三国史記』によれば、泉蓋蘇文によるクーデターは西暦642年の事件である。従って、この書紀記事も1年繰り下げるべき記事である。