第1章 山心の黎明期

【開聞岳】山頂は歌声喫茶〜1961年3月(24歳)〜

紳士靴で登った山頂

蔓が網のように編んである穴を抜け、やっとのことで道に出た! 正式な道だ。頂上はすぐその上だった。

正しい道を二人の男が登って来る。大阪大学の学生だった。開聞岳の頂上に寄り集まった男子学生は8人になった。

頂上に着くと岩の上で、やっとパンとジュースの昼食にありつけた。北のほうには、黄色い菜の花畑が地面に畳を敷いたように見える。大きい湖は池田湖だ。

東のほうには、紺碧の海に半島が突き出ている。長崎鼻だ。長崎鼻のほうに向かって、腰を下ろしている九州工大の二人が雪山讃歌を歌い始めた。

「どうですか、一緒に歌いませんか?」

合唱は4人になり、5人になった。次々に歌が進んだ。『カチューシャ』、『灯』、『トロイカ』、『黒い瞳』、『おおブレネリ』、『山のロザリオ』など次々に力いっぱい歌った。

横から流れてくる霧が、私たちの歌声を運び去る。霧と風に負けないように、私たちの声はますます大きくなった。このとき、開聞岳の頂上は、学生たちだけのものであった。

[写真] 旅行中に紳士靴で登山

私たちは30分ほど歌うと、お互いに写真を撮りあってから下山開始。帰りは正式な登山道が螺旋状に下まで続いていた。最初に出会った男、金沢大学は気分も軽く、私の前を楽しそうに歩いていく。

「なんだ、こんなに良い道があったんですね!」

山麓まで降りてくると、菜の花畑の上に白い蝶がたくさん舞っている。この数時間の間に、私たち卒業旅行の学生は不安と戦いながら、ジャングルのようななかを登り、山頂で素晴らしい合唱をして下山してきたが、それは自分の心のなかだけに起こった「激しい変化」だったのだ。

世のなかは何も変わってはいない。乱舞する蝶の群れがそう言っているようだった。

ボストンバッグを預けた店に着き、サイダーを買って飲む。ひと休みして、開聞駅午後5時6分の気動車に乗る。「この気動車が最終ですから」と私たち一般の乗客に恐縮しながら、一人きりの駅員も一緒に乗った。

気動車の窓から開聞岳を振り返ると、薩摩富士はぐんぐん小さくなっていった。山の右側の段付きになっているあたりが、リンゴを食べたところかもしれない。数時間前のことが無性に懐かしかった。

道に迷って心配しながらの山旅だったが、終わってみれば楽しかったし、密度の濃い時間だった。易しく見える山でも「なめるなよ」と教えられた思いがする。私がこれから山登りをやるとしたら、薩摩富士に登ったときのことを思い出し、この経験が肥やしになるに違いない。