第2章 山心の萌芽期

【槍ヶ岳】少佐に誘われて ~1968年8月(31歳)~

すべては何気ない一言から始まった

槍ヶ岳に行ってみたい。そう思ったきっかけは、中学の林間学校で長野県・蓼科に行ったときである。教師となった私は生徒を引率して天狗岳に登る途中、八方台を過ぎて間もなく少し広いところがあった。

「休憩だ! みんな腰を下ろして休め!」

山の好きな信州出身のB先生が指示を出した。B先生は、八ヶ岳の一つひとつ峰の名前を生徒に教えた。余談ではあるが、このとき、説明を聞いていた生徒のなかにはあの「麻丘めぐみ」もいた。

担任はM先生だ。編笠、権現、赤岳など、B先生が教えてくれる名前を、山をまったく知らなかった私は、生徒と一緒になって覚えた。

近い大きなそれらの山とは対照的に、遥か遠く小さく天を突くように見える山があった。私は遠慮なく質問した。

「B先生! あのとんがった山は、何ていう山ですか?」

振り返るようにして、B先生は、「槍ヶ岳です」と答えたが、私の横から57歳の技術科のM先生が、「え! あんた槍ヶ岳も知らないの?」と呆れたように31歳の数学科の私に言った。そのあと、何かに思いついたように彼はニコニコしながら私に話しかけた。

「この林間学校が終わったら、二人で行こうよ」

戸惑いながらも私は「はい」と先輩の先生に答えてしまった。その後、トントン拍子に話が進み、8月11日出発ということになった。

しかし、ちょうど盆帰省に入り、新宿から松本までの切符は買えそうもない。M先生は私に言う。

「松本まで帰省バスが出ているんだ。あれ使おうよ」

午後10時、京王線府中駅乗車ということで約束した。ただ、台風13号が近づいているのが気になった。

まるで台風と一緒に北アルプスに行くようで、私は中止したい気持ちだったが、相手が年配の先生だったので断わりづらかった。そんな私の弱気を見抜いてM先生は言う。

「いいじゃない。台風がきて表銀座コースがやれなかったら、上高地まで行って引き返して来たって」

M先生は戦時中陸軍では少佐だったという。よく自分で口にする。強気だ。

前夜東京府中を午後10時に出たバスは、翌日朝の午前5時に松本に着いた。バスのなかのラジオでは、台風がこちらに進路を取っているという。少佐の決断で、表銀座コースは止めて、上高地に向かうことにした。

午前8時に上高地に着く。初めて河童橋から見た穂高岳の岸壁は、荘厳というか、崇高というか、神々しいというか、しばらく呼吸が止まる思いだった。

梓川の河原で持参のおにぎりで朝食にした。台風が近づいているというし、私はもうこの景色を見ただけで帰ってもいいと思った。弱気な私は強気な少佐に激を飛ばされながら、午前9時に上高地から地図を片手に歩き出した。

私はこれまで地図を持って山などに行ったことはなかった。いつも誰かのあとについて行くだけだったから、地図は必要なかった。

明神池に寄り、徳沢、横尾、一ノ俣と進む。以上の地名はそこに到着したときに覚えた名前である。やがて新築中の槍沢ロッジを右に見て、旧槍沢小屋跡を過ぎ、槍沢の雪渓にたどりついた。

まだ午後3時だったが、空は暗く霧が深かった。初心者で小心な私は(こういうときに無理して登ると、遭難するんじゃないかな……)と心のなかで呟きながら、怖くて仕方がなかった。家には4歳の長男がいるのだ。(こんな軍隊帰りの墓入りが近い爺さんと遭難したくないよ)と心のなかで呟きは続いた。

少佐も同じ北アルプス初心者だったが、戦場から帰った人だけあって気は強かった。彼は槍ヶ岳の小屋まで登って今夜はそこに泊まろうと主張する。私は夜行バスで眠れず、その上高地から正味5時間も歩いてくたくただった。

私は今日はやる気なし。通りすがりの人が、「年配の人のほうが元気で、若い人のほうがまいっているんですか、あべこべじゃないですか」と私たちを見て笑いながら言葉を残して行った。

私がこれまで登った山はみんな小さかった。5時間も登ってまだ頂上に着かない山なんて、まったく経験がなかった。結局、弱気な私の気持ちに、少佐は折れてくれた。

「じゃあ、しょうがないね。明日、槍ヶ岳に登ろう」

私たちは大曲というところから引き返して、槍沢ロッジに泊まることにした。少し上には旧槍沢小屋跡があったが、下のロッジは現在建築中だった。

山小屋に入ると知らない人ばかりがどんどん詰めこまれた。二人は山小屋に泊まるのは初体験だった。(こんなに窮屈なところに寝るのかよ……)右を向けば少佐の顔が10センチメートルか20センチメートルのところにあり、左を向けば知らない男の汗臭い頭が、同じ距離にあった。寝返りしてばかりいてよく眠れなかった。

※本記事は、2019年9月刊行の書籍『山心は紳士靴から始まった』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。