あとは、これから先、この現実にどう対応していくのかを考えてゆかなくてはならない。私を骨の髄まで苦しめるこの不定愁訴や不眠、言い換えればこれまでの私の生き方そのものの「ツケ」をどうやって払っていくのか、答えを出していかねばならない。でも焦らなくていい。なにせ時間は山ほどあるのだから。

毎夜、眠れぬ夜に、ゆっくりとこれまでの自分の生き方と向かい合い、ツケの清算方法を考えて実行していけば良いのだ。そうだ。それで良いのだ。

ただ、その考えにたどり着いたものの、関和尚なら「寝れなんだら寝るな」の言葉の有言実行が可能であろうが、如何せん、私は悲しいことに俗にまみれた凡人だ。毎夜毎夜の眠れぬ夜に不定愁訴の波がやってくる度に、般若心経を唱えるように心でその言葉を幾度唱えても、なかなか達観できるほど、それは生やさしい「境地」ではなかった。

夜中になるのが怖い。家族が順々に寝静まっていくのが怖い。たった一人、闇の中に取り残され、孤独な閉塞感が空が白み始めるまで続くのかと思うと、怖くて怖くて胸が詰まるような不安感と焦燥感が私の心を支配する。

一人、窓の外、分厚い雲に隠された月の気配を探しながら真夜中の闇夜に目を凝らす。泣きたくなるほど心細い時間が過ぎてゆく。ゆっくり、ゆっくりと過ぎてゆく。

焦らなくてもいいけど少しくらいは眠らなくては。でも眠れない。全くといっていいほど眠れないことに焦り、どんどん不安が募る。「ほんの少しでも寝なくては」と焦ると余計に眠れない。息苦しさと不安感が増強する。思考回路がこの負のスパイラルに迷い込んで長い長い時間がうつうつと経過する。

けれど、闇が深くなればなるほど夜明けが近い。張り詰めた夜気が纏う漆黒の薄絹をスローモーションで、はらり、はらりと脱ぎ払うように遠い山の端から夜が白んでくる。 

不思議な光景。いわゆる「かぎろい」。

かつて、万葉の歌人でさえも詠わずにはおれなかったその光景。

先ほどまでの孤独感と焦燥感は消えゆき、口から自然に、あの一文がこぼれ出る。

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる(いとおかし)」

平安の世でも、現在でも、共感できる自然美や風情は時代を超えて日本人のDNAとして受け継がれるのかと思えてしまうほど、「夜明け」は人の心に染み入るものだ。

夜気に未だ包まれるベランダに出て、しばし、明けゆく山際の情景に見とれる。

「眠れないことも悪いことばかりではない」、そう思えた。