どん底

「死にゃあしねえよ」

得体のしれない更年期障害の不定(ふてい)愁訴(しゅうそ)で「眠れない」ことに苦しみもがく毎日に耐えかねて、婦人科を受診した私に対する医師のひとこと。

医師の暴言に私はショックを受けると同時にある意味、「なるほどな」と妙に納得した。

この医師にとっては、死ぬ病気が問題であって、毎日続く眠れない苦痛、突然に襲う激しいめまい、手足の強烈な冷えと激痛、胸が締め付けられるような呼吸苦を伴う不安感などは全く問題ではないのだ。死ななければ良いのだ。

私にとって現在、直面している更年期障害は未だかつて経験したことのないほどの耐えがたい病苦である。けれど、死ぬことのないこの病苦は医師にとっては「問題」ではなく、いくら私が期待しても医師がこの病苦を治すことは、結局できないのだ。

おそらく他のセカンドオピニオンを求めて、たとえ医療難民になったとしても、この病苦の特効薬もなければ、「本気」で治療が必要と考える医師もいないのだろうと思った。

所詮はホルモンのバランスが崩れることで出現する生理現象的な不定愁訴である。いずれは時間が解決してくれる一時的な症状で、死ぬ病気でもなければ、特効薬を開発する価値もないほどの症状であり、そのうち治ると医学的には位置づけされているのであろう。

けれど、おそらく多くの女性は、今の私のように医師と特効薬への失望感を抱きながら、いつ終わるともしれない病苦や不安・焦りと、日々闘っている。死ななくても毎日が底知れぬほど壮絶に苦しいのだ。

この苦しさと共存して毎日を生きていかねばならないことは女に生まれた因果であると思う。

女は実に過酷な宿命を神に与えられた生き物だ。生理、妊娠、出産など、自然の摂理の営みとはいえ命をかけた生理的な役割を与えられ、それが終わったら、今度は閉経後に一気に動脈硬化や骨粗しょう症などのリスクが加速するというハンディを背負わされ、その過程で更年期障害という得体のしれない病苦に苦しめられる。その苦しみも十分には周囲には理解されず、頼みの綱である医師からも「死にゃあしねえよ」と暴言を吐かれる、何とも不憫な生き物だ。

医師のこの言葉をきっかけに、改めて今の自分が置かれている立場、女に生まれて57年、逃げることのできない、乗り越えねばならない試練の渦中にいるのだということが理解できた。この試練は女として生を受けた以上、避けては通れない「道」なのだ。ちゃんと、この試練を乗り越えて初めて

「死ぬこと」ができるのかもしれない。

私はこの病苦と眠れぬ夜にこれから先も果てしなく付き合っていかねばならない現実を受け入れる覚悟をしなければならない。病苦への底知れない不安と自分自身の最期に向かう準備期に入ったことへの畏れを抱きつつ、眠れぬ夜を受け入れ積み上げていく覚悟をしなければならない。そのような「人生の時代」に私は突入したのだ。