しかし人権にも係わるずいぶんおかしなことをやらせたこともあった。宮田先生は数学の教師だったが、ある日、全員に、厚紙に「√3以下」という文字を書いて紐をつけてくるようにと言った。それは何のためかというと、授業で先生が例題を解いたり問題を生徒に解かせたりするとき、分からない生徒にそれを首に掛けさせるためであった。

√3を小数に直すと、(ひと)七三(なみ)……となるので、「人並み以下」ということを意味するのである。問題が解けない生徒は、わたしは人並み以下ですから当てないでくださいと表明するわけである。

教える先生としてはどれくらいの生徒が理解できているか把握するのに役立つのかもしれないが、現在なら保護者が黙ってはいない。大問題になり新聞沙汰になることだろう。

宮田先生の奥さんが練習を終えてこちらに歩いてきた。

「じゃ、しっかりやれよ」

先生はそう言って奥さんを乗せて帰るために自動車の方に向かった。

「昔は恐い先生だったよな。男子で殴られなかったのはいたかね。お前はどうだったんだ」

「おれも殴られたさ」

「どうだか。お前は先生のお気に入りだったからな」

「ところで今、先生はどうしておられるのかな。もう退職されたのか」

「お前知らないのか。今では大きな塾の経営者だ。お寺と塾で儲かってるらしいぞ。定年になる前に辞めて塾を始めたんだが、学校時代の評判でどんどん生徒が集まってな。最初は奥さんと二人でやってたんだが、今じゃ大学生のアルバイトを雇って自分は経営者だよ。さっきの車、見ただろう。あんな車をこの辺りで乗っているのはあの先生くらいだ」

もう今日予定されていた受験者の試験は終わっている。二人が控室に戻ると、三十人の受験者は互いにしゃべり合いながら結果の発表を待っていた。それからしばらくして発表があった。

「おい、おれ受かったぞ。おっ、お前もだ。さあ今日はパチンコでもやって帰るぞ」

まだ仮免許に受かっただけなのに常雄はいかにもうれしそうだった。

【前回の記事を読む】「二人とも学生さんでしょう」…彼女の方から話し掛けてきた