第一章 伊都国と日向神話

3.「秦王国」から南九州移住する

九州の地勢について考察するには、地勢活用の軍事的背景となる邪馬台国と狗奴国の位置関係を見ておかねばなるまい。さらには軍事力を行使するためには、どこにどれだけの軍勢を配置して自軍情報網を整備すればよいか、あるいは狗奴国の攻撃力抑止には、どうすればそれが可能であるか、などといった視点も必要になるので、後年の磐井の乱を例にとって、地勢戦略の観点から、狗奴国包囲について考えてみたい。

のちには磐井の乱を起こす磐井一族は、邪馬台国の時代には狗奴国の北に位置して、すなわち伊都国と狗奴国との重要な緩衝地帯であった。狗奴国の東側のやや北には秦氏の豊国(秦王国)があって、キクチヒコを牽制していた。「秦王国」という名の不思議な国は、後年の『隋書』(636年)に記載され、推古天皇の頃、筑紫国(竹斯国)より東に行ったところに存在した。

しかしその時代にあっても、「秦王国」の人々の服装は中国人のようであったので、それより遡った狗奴国の時代も、やはり中国風な人々が住む地帯であったと言える。というのも服飾などの文化は、簡単に変化するものではないからである。

推古紀十六年(608)、夏四月のことである。

(イ)小野臣妹子、大唐より至(まういた)る。唐国(もろこしのくに)、妹子臣(いもこのおみ)を号(なづ)けて蘇因高(そいんかう)と曰(い)ふ。即(すなは)ち大唐(もろこし)の使人裴世清(つかひはいせいせい)・下客十二人(しもべとたりあまりふたり)、妹子臣(いもこのおみ)に従(したが)ひて、筑紫(つくし)に至(いた)る。難波吉士雄成(なにはのきしをなり)を遣(つかは)して、大唐の客(まらうと)裴世清等(ら)を召(め)す。唐(もろこし)の客の為(ため)に、更新(またにひ)しき館(むろつみ)を難波(なには)の高麗館(こまのむろつみ)の上(ほとり)に造(つく)る。

一方では、同じ記事が『隋書』倭国伝に見える。

(ロ)明年、上、文林郎裴清を遣わして倭国に使せしむ。(中略)都斯麻国を経、逈(はる)かに大海の中にあり。また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人華夏に同じ、以て夷洲となすも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は皆な倭に附庸す。倭王、少徳阿輩台を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。

(イ)と(ロ)は、それぞれ日本側の応接内容と、隋の側から見た倭国の地理を示している。二つを比較すれば、より正確な知見が得られる。

(イ)では、小野妹子に従って来日した裴世清らを、難波の地で歓待している。その様子を隋書(ロ)では、倭王(推古)が接待役として阿輩台を派遣し、その従者数百人が武器を携えて(儀仗兵として)並び、鼓や角笛を鳴らして歓迎式を行ったのである。

(ロ)では裴世清一行が、「秦王国」(豊国=大分県)の浜辺から船出して、瀬戸内海の十余国を経て、難波の海岸に達したことが述べられている。その海岸には、高麗館の上に館を新設して、大歓待した様子が分かる。

また(ロ)では「竹斯国より以東は」と、ヤマト政権の所在地へ至る方位を、はっきり「東」と記している。魏志倭人伝の方向違いを、ここで南から東に訂正しているのである。地名として表記された「都斯麻国」が対馬、「一支国」は壱岐、そして「竹斯国」が筑紫であるのは、言うまでもない。

同じく(ロ)には、「その人華夏に同じ、以て夷洲となすも」とある。「その人」=「秦王国」の人は、「華夏」=中国人と同じ外見・服装をしているので、「夷洲」=台湾と見做すがよく分からない、と正直な観察結果を残している。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。