第一章 伊都国と日向神話

2.古代ヤマトの軍事的地勢

降臨の地である伊都国、現在の糸島市は、地形の点では前述の説明にピッタリである。筑肥線の波多江駅周辺(地名の意味は「秦氏の入り江」)は、古地図には東西から入り江が迫って一続きになり、糸島水道になっていた。

そこから見ると、夏至には博多湾の向こう、香椎宮方向の立花山から朝日が昇る。また冬至の頃は、唐津湾に日が落ちていくのである。残念ながら、筆者はまだこの絶景を見ていない。地図上で想像する日の出、日没にしか過ぎないが、方位だけは確認済みである。

一般的には「日向」は日向国(宮崎県)のことであり、「高千穂」は宮崎県北部の高千穂峡付近に一つあり、またもう一つは、宮崎・鹿児島県境にある霧島火山の中にある。

しかしなぜ「高千穂」は、二カ所に存在するのか。

最初の天孫降臨の地「伊都国」からの移住者たちが、故郷の「麗しき高千穂」の呼び名をもつ山を懐かしんで、新しい居住地の山を「高千穂」としたのである。移住した(させられた)原因は、狗奴国との戦争準備のためである。狗奴国包囲作戦の結果である。

狗奴国に敵対していた邪馬台国は、既述のように出雲国との政教分離国家であり、卑弥呼は「教」を専らにしていた。出雲国は「政」を担当し、軍を組織・維持していた。

この体制に乗っかって、さらに魏に支援された伊都国王が、邪馬台国全体を間接支配していたのである。狗奴国封じ込め作戦は、最終的には伊都国王の考えに従って実施されたと思われる。

ではその作戦の概要は、どのようなものであったか。狗奴国を東西南北から包囲すれば、同国が伊都国に向かって、すなわち北へ向かって突出する軍事行動を抑制することができるはずだ。

そして北側には、①筑後川中流域に九州一の豪族を配置した。これがのちの磐井一族である。東側にはやや北寄りに②秦氏(秦王国)を置き、やや南寄りには③高千穂峡から狗奴国を牽制させた。南部には④日向国とそこから分国した⑤大隅、⑥薩摩両国を据えた。

狗奴国の西側は、天草の海である。ここでは制海権を確保して、狗奴国のキクチヒコを封鎖する作戦であった。

合理的な戦略を立案すれば、誰が考えてもほぼこの案に落ち着くが、それら①〜⑥の戦略的配置は、①を除けば、以下に示す史料によって確認ができる。

しかし①にしても、後世の527年に起きた「磐井の乱」を考えれば、この地方に磐井一族が勢力を張っていたことを前提にしないと、説明ができない。

継体天皇の二十一年に起きた「磐井の乱」は、地方豪族磐井の経済的基盤であった屯倉を、天皇家が支配しようとしたことに端を発する。以下は継体紀の記事であるが、少し解説的な一文を挿む。

ここで我々は、狗奴国包囲作戦の効果が実証され、その結果を知ることができる。年代は特定できないものの狗奴国が消滅して、そのあと磐井一族が旧狗奴国を支配下に置いたこと、さらに上記戦略の考え方に沿って、磐井一族はその勢力圏を東側の豊国にまで及ぼし、また西側の海上にも手を伸ばして、一族の政治・経済的基盤を強化したことが窺える内容である。

資源確保の面では、その豊国は、秦氏が開発した鉱山(香春岳周辺)が栄えていたので、特別な意味を持つものであった。ヤマト政権にとって、磐井一族は危険な存在になりつつあった。そして九州におけるこれ以上の勢力拡大は、是非とも防ぐ必要に迫られていたのである。

継体紀二十一年の夏六月、先に新羅に破られて奪われてしまった南加羅・㖨己呑(とくことん)を奪回すべく、毛野臣に六万の軍勢を付けて、任那に渡海させた。

是(ここ)に、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいはゐ)、陰(ひそか)に叛逆(そむ)くことを謨(はか)りて、(中略) 新羅(しらき)、是(これ)を知(し)りて、密(ひそか)に貨賂(まひなひ)を磐井が所(もと)に行(おく)りて、勧(すす)むらく、毛野臣(けなのおみ)の軍(いくさ)を防遏(た)へよと。

是に、磐井(いはゐ)、火(ひのくに)・豊(とよのくに)、二(ふた)つの国(くに)に掩(おそ)ひ拠(よ)りて、使修職(つかへまつ)らず。外(と)は海路(うみつぢ)を邀(た)へて、高麗(こま)・百済(くだら)・新羅・任那等(みまなら)の国の年(としごと)に職貢(みつきものたてまつ)る船(ふね)を誘(わかつ)り致(いた)し、内(うち)は任那に遣(つかは)はせる毛野臣の軍を遮(さいぎ)りて、(中略)。

この記事によれば、密かに新羅と組んだ磐井が、毛野臣の軍が半島に渡ることを妨害した、とある。この暴挙を後押ししたのが、筑後川や背振山地から九重山にかけての、天然要害となる九州の山河であったことも記されている。

川(かは)の阻(さが)しきことを負(たの)みて庭(つかへまつ)らず。山(やま)の峻(たか)きに憑(よ)りて乱(みだれ)を称(あ)ぐ。徳(いきほひ)を敗(やぶ)りて道(みち)に反(そむ)く。侮(あなづ)り嫚(おご)りて自(みづか)ら賢(さか)しとおもへり。

磐井一族のこの離反に対し継体側は、二十二年の冬十一月、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)を大将軍に任命して、磐井を討った。以下は、戦況の推移である。

大将軍物部大連麁鹿火(おほきいくさのきみもののべのおほむらじあらかひ)、親(みづか)ら賊(あた)の帥(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡(みゐのこほり)に交戦(あひたたか)ふ。旗鼓相望(はたつづみあひのぞ)み、埃塵相接(ちりあひつ)げり。機(はかりこと)を両(ふた)つの陣(いくさ)の間(あひだ)に決(さだ)めて、万死(みをす) つる地(ところ)を避(さ)らず。遂(つひ)に磐井(いはゐ)を斬(き)りて、果(はた)して疆場(さかひ)を定(さだ)む。

十二月(しはす)に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐(おそ)りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献(たてまつ)りて、死罪贖(しぬるつみあが)はむことを求(まう)す。

このように、はかりごとを用いて激戦を制し、遂に磐井を斬ったのである。その子葛子は、父に連座することを恐れて、一族の大切な財であった糟屋屯倉を天皇家に献じた。『和名抄』に筑前国糟屋郡とあって、磐井の版図が北九州の玄界灘にまで達していたことが分かる。

その勢力圏を縮小させるべく、戦後処理として磐井一族とのあいだに新しい境界線を定めて、彼らの軍事力を削いだのである。結果論からすれば、朝鮮半島の新羅と組んだ磐井一族の罪を糾弾して、その経済的基盤の糟屋屯倉を奪うことに成功したのである。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。