鍵を握る男ハイゼンベルク

このようにして、第三回目の会議が一九四二年六月四日にもたれることになったのですが、シュペーアと空軍元帥ミルヒとその側近が出席したこの会合こそ、原爆の製造を望む科学者たちにとって、これ以上の好機はないと考えられました。会議では核研究の理論面での責任者であるハイゼンベルクが今後の見通しを説明しました。

彼の講演の原稿は残っておらず、シュペーアが書いた回想録によれば、ハイゼンベルクの話す内容はもっぱら科学の事業として核研究の話、帝国科学者専門会議のしみったれぶり、研究のための材料の不足(主として鉄鋼、ニッケルなどの金属類)というようなドイツの科学者なら誰もがしゃべるようなことでした。

ハイゼンベルクが講演を終えて自分の席に戻ると、シュペーアは単刀直入に「どうしたら核物理学を原子爆弾の製造に応用できるか」と尋ねました。のちに、ハイゼンベルクは「ええ、原理的には原爆の製造は可能ですし、爆発性物質を作り出すこともできますが、我々の知るところでは、こうした爆発性物質を作るための全過程には莫大な費用と多くの年月を要するでしょうし、本当に実行するのであれば、途方もない技術的な出費が必要になります」と説明したと言っていました。

さらに、ハイゼンベルクがドイツにはサイクロトロンがないから研究が進まないのだと説明したのに対し、シュペーアが軍需省の力でアメリカのサイクロトロンに匹敵する大型のサイクロトロンをかならず建造すると言うと、ハイゼンベルクはこれに異をとなえ、ドイツはこの分野での経験を欠いており、まずは小型のサイクロトロンを使った実験から始めなければならないと言いました。

ミルヒ元帥がハイゼンベルクに「たとえば、ロンドン程度の大都市を壊滅状態にするとしたら、どれくらいの大きさの原爆があればいいのかな」と尋ねました。ハイゼンベルクは手で大きさを示しながら、「ほぼパイナップルくらいのものでしょう」と答えました。

次いでミルヒがアメリカは原子炉および原爆を完成するのにどれくらいの時間がかかるかと質問したのに対し、ハイゼンベルクはたとえアメリカが最大限の努力を傾けたとしても、一九四五年までは、アメリカの原爆を恐れる必要がないと答えました(この時間感覚はほぼ正しかったと言えます)。