ところが、「どのくらいの金が必要か」と尋ねられると、ワイツゼッカー(ハイゼンベルク配下の気心が知れた物理学者。弟はのちにドイツ大統領になりました)は四万マルクという(戦前の)大学の予算としてなら十分だと思える程度の金額を口にしました。

それは軍需大臣からすれば、ばかばかしいほど少ない金額だったので、(こうした研究者のうぶというか、ばか正直さ加減に驚いて)、ミルヒとシュペーアは顔を見合わせて思わず頭を振ったと、あとでミルヒは語っていました。このようなやり取りが続き、ハイゼンベルクは原爆の製造が理論的には可能だと認めましたが、それ以上に色よい返事はとうとう彼の口からはまったく出ませんでした。

彼もこの会議がいかなる意味を持つか、原爆開発の最後のチャンスであることはわかっていたはずです。しかし、彼の返答はすべて間違ってはいませんでしたが、推進派が期待するような言葉はまったく入っていませんでした。

いずれにしても、この会議のあと、ハイゼンベルクは「政府は一九四二年六月に原子炉計画の研究を継続する必要はあるが、無理のない範囲にとどめるとの決定を下しました。原爆を製造せよとの命令はなかったし、我々がこの決定に修正を求める理由もなかった」と淡々と書いていました。

たぶん、ハイゼンベルクが内心必死で望んでいた結論どおりになったのでしょう。実際、シュペーアはこの会議以降、原爆開発の可能性など一顧だにしませんでした。

つまり、ドイツでは原爆開発は国家プロジェクトに昇格する唯一の機会を失ったのです。その時期は一九四二年六月で、ほぼマンハッタン計画が発足した時期と同じでした。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『人類はこうして核兵器を廃絶できる』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。