【前回の記事を読む】百合が遺した禍根。「自分とは無関係」と言いきれない理由は…

音楽家が抱く人生の悲しみや憂い

演奏会が終わり、お定まりの茶話会が始まった。ささやかな軽食が用意され、アルコールをたしなむ会員にはビールとワインが、その他の人には紅茶かコーヒーがふるまわれるのが常だった。サロンは一応社交場となり、出席の会員たちは旧交を温め、彼らの中で真面目なタイプはその日の演目につき感想や批評を述べ合う。

批評といっても当の演奏者が目の前にいて、しかもボランティアに似た申し出によるか、格安の演奏料で引き受けてくれているから、音楽サロンは何とか運営が成り立っていると皆がわかっている。そのため歯に衣着せぬ批評というものはほとんど出てこないのが通例である。演奏者のほうもプロには違いないが、大体がそう売れてもいない人で、お車代に毛が生えた程度の謝礼で来てもらうというのが常態化しているようだった。

この日も演奏家の演奏そのものに対して批評するというよりも、むしろ演奏された曲目をあれこれ評価するほうが会話の中心となっていた。常連の参会者の一人がこの日に演奏されたシューベルトのピアノソナタにつき感想を述べ始めた。一九番と二〇番についてはどれほど巧みに弾こうとも何箇所かの小節では、あまりに間のびしたメロディーや、単調すぎる和音の連続があるとしてシューベルトを貶める批評内容だった。

ほかにも二人ほど同調する者が現れたところで、日頃は寡黙な百合が反論めいたことを言い出した。彼女のシューベルト擁護の内容に関し、来栖は大方のところは忘れてしまった。だが厳しい批評の対象となった箇所についての百合の弁護だけは、どういうわけか記憶に残っていた。

今でも覚えているが、「シューベルトの非凡さは丁度批評された単調なフレーズの中に表れているのではないでしょうか」というのが彼女の意見の骨子だった。百合がシューベルトを擁護したことだけはその意外な取り合わせと、日ごろ物言わぬ人間が正当な意見かどうかは別として一家言を持ったということで、来栖には印象深い出来事として記憶に残ったのだろう。