本来の「共生」

葛城と真理が結婚して半年ほど経った頃だったろうか、会って話がしたいというような気持ちにはならないものの、二人のことを考えないように努めてきた反作用というべきなのか、二人のことをふと思い起こすような時が出てきた。気持ちの上で余裕が出てきたということかもしれない。

葛城のことを思い起こすと、今では共感するだけでなく、敬意の感情まで抱いている。この変わりようには来栖も説明のつけようがない。自身の内面を推しはかろうとすると、自分では克服できない屈折したエゴイズムの表れが原因ではないかと認めるところもある。

これは人生のパートナーとなってくれる女性を得た他者を、無理にでも是認していこうとする対応に出てきている。この利他主義が自然に出てくるのであれば自身の品性にも自信を持てる。しかし本音のところでは、葛城と真理の組み合わせを祝福しなければ、他者を羨むばかりの自己の卑しい感情が堰を切ったように湧き起ってしまうのではないかと恐れる自分の姿を自覚していた。

ひょっとすると、二人の組み合わせには納得がいかないというような気持ちが心の奥底に残っているのかもしれない。この劣性の性格を自覚したからだろうか、結果として彼はこれからも真理に近づくようなことだけはやはりやめておこうと、改めて肝に銘じた。

これは結婚で真理が人妻になったから遠慮したというわけではない。恭子との関係でもそうだったように、来栖はつき合っている女性と緊密に結びつき過ぎることには抵抗があり、そのため他の男と結婚している女性のほうがむしろつき合いやすいと思っていたほどだった。

異性関係を問わず、他人と深く結び合うことにはどういうわけか尻込みしてしまう。女性に対し体で結びつきたいということでは、人並みに欲動を持っていた。その反面、日常生活で一緒に長くいて肌を寄せ合うということを具体的に思い描くと、何事にも躊躇してしまう。このため、恭子とのつき合いでも相当苦労した。とにもかくにも日々の生活を他者と共有することが多くなる事自体、生理的に嫌なのである。

真理のことも周囲からみると奪われた格好だが、むしろ真理と葛城が結婚してほっとしたはずだ。結婚というような男女のつながりを公的に認証する儀式は社会制度に組み入れられているわけだが、これには元々無関心で、肯定も否定もしないような考えを従来から持っていた。

今回のことに関しては葛城の一途な真理への情熱に負けたな、という敗北感のような思いが出てきた時期があったことも事実だ。これらの錯綜した思いが、二人にはもう関わりを持たない方が良いとの判断につながったとは、来栖も素直に認めるところだった。

それにも増して、葛城の潔さと情熱の強度に殆ど感動するところまでいったといっても大げさではない。そう思える時には敗北感というようなケチな感情は吹き飛んでしまっていた。

ともあれ肉体的な面であれ精神的な結びつきであれ、来栖は自分には絶対に越えられないバリアがあると気づかされた。結婚という社会制度を経て、あるいは直截に同棲や共同生活という形を経て人間が異性の相手と日々心も体も互いに寄り添わせて生きていくには、常時「生の跳躍」とも言うべきエネルギーが必要なのではないのか。元々食い違ってしまうことが多々起こる感情や考え方を他者とすり合わせながら生きていくこと、これは想いうかべるだけで至難の業と映る。

特に意中の異性を相手にして、ひたすら寄り添う意欲を持続するには、生半可な知力など蹴散らしてしまうほどの思い入れの強さが絶対に必要だ。そのような意識が芽生えて持続していき、その昂揚感を体で感じ取れることが男には必要なのだろう。彼にとってはそのような前提を必要とする「共生」をイメージするだけで肉体も精神も萎えていくのが感覚でわかる。

至近で相手のまなざしに耐え、自己のまなざしで相手を四六時中とらえ、共に生きていると確信し納得する。これが本来の「共生」だと考えるだけで疲れてしまう。