【前回の記事を読む】演奏会後のサロンは社交場となる。シューベルトのピアノソナタは「悲哀の想い」と…

音楽家が抱く人生の悲しみや憂い

一瞬目が会い、彼は思わず顔全体で頷きの表情を浮かべてしまったようだ。

これを百合は見逃さず、この時ばかりは賛同者の来栖という存在を強く意識したかもしれない。その前にシューベルトに対し否定的な発言をした評者には、来栖は無関心の態度を取っていたと思う。だから彼の対応の違いにも彼女は実際に気づいたようだった。

それにも増して、この時に目と目が合い、シューベルトの音楽を受け入れることではこの人とわかり合えると、一瞬にして自覚したのではないかとまで、来栖は推しはかった。音楽会では百合にこれまでは注目することなどなかった。

恐らくはシューベルトのピアノソナタに関し、主観的に過ぎようとも同様の理解をしていたので、この時の百合は彼に強烈な印象を与えたのだろう。そのためだろうか、彼女の表現やしぐさなど、この時ばかりははっきりと記憶に残った。

その後の例会での百合は再び目立たず、控えめな存在に戻ったままだった。来栖のほうは百合の発言を聞いた当時を思い出として懐かしく回想する気持ちになることも出てきた。

そうすると実際の構図とは全く違うのに、百合と共にシューベルトに聞きほれている情景が想像裡の世界から出てくるとでも言えるのだろうか、勝手に蘇ってくる。実際に体験したと思えるコンサートのシーンと、新たにイメージとして出来上がった情景とが重なり混じり合っていく。

つまるところ、自身も居合わせ眺めていたと思えるシーンと聴きとどけた内容が明確には定められない。これにはまたブレンデルがシューベルトを弾いたライブ録音のカセットテープを久しぶりに何回も聞いたことも与っているようだ。

所有の本や古いビデオテープとカセットテープの大部分を処分しようと仕分けしていた時に、二〇代の頃聴き過ぎて損じるほどになっていたレコードから、かろうじてカセットテープに収録し直していたブレンデルの演奏を見つけた。

愛好のピアノソナタ、シューベルト、そしてブレンデルの演奏へとつながり、どういうわけか自分でも分からないのだが、遅ればせの青春の頃のことまでも連想で思いおこしていた。ノイズにまみれてしまっているとはいえ、カセットテープでシューベルトを聞き、懐かしさと共にこのウィーンに生まれウィーンで育った音楽家が紡ぎだす悲哀と孤愁というのだろうか、そのような感情を実際に聞き取れたようだと感じた。