「ごく普通の日常生活の中でシューベルトが抱いていたアンニュイの感情と創造への意欲の間で、右手と左手の交互の休止による無音の空白と、その合間をぬって奏でられる、限りなく単調な和音の連なりから成り立っている小節の中にこそ、音楽家が日常で抱えていた悲哀や憂愁の思いが聞き取れる時もあるのでは」というのがその日の彼女の控えめな意見の趣旨で、「このことはどちらかと言うと、一九番のほうに当てはまることではないでしょうか」とも言っていた。

人生の悲しみや憂いというような言葉を百合がその当時本当に用いたかどうかは確かではない。恐らくは記憶の中に残った百合の考えの意を汲み、来栖自身勝手にわかりやすいように解釈したのだろうとも思える。しかしそうだとすると、百合の考え方だけをなぜ自らの言葉に置き換えてまで記憶にとどめたのだろうか? 今頃になってその理由を推しはかろうとしている。

思い当たったのは、百合に強く肩入れしたくなるほどに、ほとんど同じような思いを彼自身もシューベルトのソナタに対し抱いていたからだ。ほかの理由など何もなかった。その時だけは「感想なのですが」で始まる彼女の言葉が、来栖にとっては強い批評の言葉として響いた。

安上がりで手軽な集いとはいえ、音楽サロンでシューベルトの曲想に結びつけて「アンニュイ」、そして「悲哀の思い」という言葉を並列の形で提示した人間がいるということで、彼は驚きと共感の入り混じった気持ちになり、珍しくも百合に注目した。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『ミレニアムの黄昏』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。