仕事と家庭

新婚時代 長女誕生

新婚所帯は、田無市(現・西東京市)で持った。田無駅から徒歩二十分ほどかかる分譲マンションで、緑豊かな落ち着いた環境が気に入った。その年の十二月まで、私が京都で働くことになっていたため、週末婚だった。新居からバスで田無駅へ、田無駅から高田馬場駅、新宿駅、東京駅、京都駅、烏丸駅と六つの駅を経由、五時間かけての通勤である。

毎週月曜の朝六時前に家を出て、木曜の夜に帰宅した。京都で一人暮らしをしていたマンションは賃貸料がもったいないので解約し、月曜から水曜まで実家に泊まった。木曜の夕方になると、母が作ってくれた料理をいっぱい持って東京へ帰る。東京のマンションに帰っては「ただいま」と言い、京都の実家でも「ただいま」と言える、二重生活の幸せを味わった。

母は、妊娠中の私を気遣って、いろいろ好物を作ってくれた。思いがけず、ハネムーンベイビーを授かったのである。職場の関係者や友人たちから盛大な祝福を受けて、年末に編集長などの職を辞し、生活のすべてを東京に移した。

翌一九九二年三月十五日、長女を出産した。だが、幸せに満ちるべき日々が、思いもよらぬ辛いものとなった。それまで、仕事で一週間に十枚以上の名刺を使うのが当たり前だった生活から、友達一人いない土地で赤ん坊と二人、閉じこもる日々になったからである。

博史は、四月から専任講師になっていた。職場である早稲田大学社会科学部は、当時夜間学部だった。昼食を済ませて家を出ると夜九時まで授業があり、その後学生からの質問などを受けて、帰宅はいつも終電で午前二時過ぎ。私は日中、大きなお腹を抱えて、誰ともしゃべることなく時間を過ごす。

公園に行っても都心に働きに出る共働き家庭が多いようで、同年代を見かけない。早稲田時代の友人たちを家に招こうにも、仕事や子育てに忙しそうで、「遊びに来て」とは言いづらい。ネットに入っても、以前の仲間たちは深夜にチャットをするので、時間が合わない。鬱々としてしまった。

生まれた長女は、よく泣く赤ん坊だった。ミルクは飲ませた、おむつは替えた、抱っこしてる、あやしてる、なのに泣く。博史は育児をよく手伝ってはくれた。おむつも替えてくれたし、早く帰宅できたときにはお風呂にも入れてくれた。しかし、私は初めての母親業のうえに主婦業にも慣れていなくて、手際が悪い。

母乳の出が悪くて粉ミルクを使ったが、三時間ごとにミルクを作って飲ませ、その後に哺乳瓶の消毒をしていると、寝る時間もない。電話育児相談を利用したことがある。

「どうして泣いてばかりいるんですか」

すがる思いで尋ねた私に、ベテランらしい声音の女性は「愛情不足なんですよ」と断定した。

「ご主人とよく話し合ってね。一人で抱え込みすぎないように」

博史には、愚痴は聞いてもらっていた。しかし、帰宅が午前様である。そのうえ、翌日の授業の準備があると言って、自分の書斎に入ってしまう。私は娘を抱いて「愛情不足のせいで、この子は泣くんだ」と、自分を責めた。