第一章  突然の別れ

第一報

二〇一八年一月二十日(土)。ヴェネツィア。午後九時三十分。

(日本は日曜の午前五時三十分。熟睡中だわね)

深い寝息をたてている夫を思いながら、メールを送った。夫の博史(ひろし)は今月六日から一時帰国中。私は同行せず、ヴェネツィアに残っていた。こんなに長く一人暮らしをするのは、結婚生活二十六年余りにして初めてである。

「そろそろあなたのお声が聞きたくなってきました。気をつけて来てね。待っています」

二時間半後、博史から電話がかかってきた。

「どうしたの? 今日は朝から忙しいんだ、と言ってたのに」

「僕も君の声が聞きたくなったから」

いつもと変わらぬ、ちょっとハスキーな明るい声だった。

「ヴェネツィア、寒いんだって?」

「凍えてるわよぉ。カイロが足りない」

「大量に持っていくよ」

毎日のメールですでにやりとり済みの内容だったが、電話で直に伝えられて、声の聞けることがうれしかった。博史も、はずんだ口調で返事してくれた。

箪笥(たんす)の一番上にある厚手のセーター、見つけられたのよね?」

「うん。もうバゲージに入れといた。トレッキング用の靴も入れたぞ」

「はいはい。楽しみね」

二人で、春になったらドロミテ地方へトレッキングに行くつもりだった。日帰りで行ける距離なので、週末に一泊すれば素晴らしい旅になるだろう。高原の澄み切った空気を浴びて可憐な高山植物の写真を撮るプランを、カメラが趣味の博史は楽しそうに練っていた。

「でも、トレッキングの前にカーニバルですからね。忘れないでよぉ」

わざと甘えた声で念押しすると、

「ほんとに仮装するのか? 僕は仮面だけでいいよ」

「ダメよ。私が一人で侯爵夫人になったって意味ないでしょ。舞踏会にはカップルで行くものよ」

「わかったよ……ま、いいか」

渋々みたいな声を作っていたが、内心では博史も楽しみにしていることくらいわかっている。世界三大カーニバルの一つに数えられるヴェネツィアのカーニバルは、お祭りの多いイタリアの中でも最大規模だと聞いていた。ロミオとジュリエットみたいな中世貴族の衣装を身にまとった男女が街を練り歩き、パレードや舞踏会なども催される。観光客も貸衣装で参加できる。この年は、一月二十七日から二月十三日までが開催期間だった。

博史のヴェネツィア赴任は、あと六カ月で終わる。カーニバルは一生に一度の経験だろうから、ぜひ参加してみたかったが、二人で衣装を借りて舞踏会の見物チケットを購入すると二十万円近くかかる。

その分、飛行機代を節約しようと話し合い、今回は博史が単身で帰国することにしたのだった。