ゼミ合宿と最初の出版

阪神淡路大震災長男誕生

一九九五年一月十二日、第二子である長男が誕生した。

その五日後の一月十七日。退院予定日の早朝、大きな揺れに目が覚めた。地震だった。待合室に行くと、阪神淡路大震災の速報がテレビに映っていた。京都の母から、新幹線が止まっていて東京へ行けない、という電話が入った。

退院を延ばし、見舞いに来てくれた博史と娘とともに、テレビを見ながら過ごした。授乳のたびに、この小さな命を抱ける幸せを感じた。死者や行方不明者がどんどん増えていくのを聞くと、その人の家族のことが思われた。

一人の政治家が「この地区の被災者が××人で済んでよかった」と言ったのを聞いて、博史が「バカヤロー」と、怒鳴った。

「××人という数字の人が死んだんじゃないんだ。一人ひとりの人生があって、その一人ひとりの人生がなくなったんだ」

運命という言葉で済ませるな、政治家なら打つべき対策はなかったのか、助けられる命はなかったのか、人災はなかったのか、しっかり検証しろ、と博史はテレビに向かって怒りをぶつけていた。

強く同意しながら、憲法学者として人権について常に研究している彼の覚悟を聞いた思いだった。予定より二日遅れて退院した息子は、長女とは違って、寝るのが大好きな子で、お腹がすくと突然大声で泣き出し、ミルクを飲ませると「僕、満腹満足、お休みなさい」と、にこにこ寝てしまうような子だった。赤ちゃんによって、こんなにも違うものか、と驚いた。

しかし、生後三カ月ほどはラクをさせてくれた息子だったが、アトピー、水いぼ、皮膚炎と次々に発症し、またまた病院通いが欠かせなくなった。ワセリンとステロイドとの配合薬を処方されたが、配合に三種類あり、状態に応じて使い分けねばならない。ひどいときには薬がすぐに無くなり、三日も経たずに病院へ行くこともあった。

一カ月間の産休後、仕事に復帰したが、なるべく自宅に持ち帰ることにして、こなした。

四月から、生後二カ月半の息子を保育ママさんに預けた。入れ替わりに、三歳の娘は保育園に入園した。驚いたことに、娘の学年には同じマンションのお子さんが五人もいた。みんな〇歳児から保育園に入っていたのだ。どうりで日中、公園などで同じ年齢の赤ちゃんに出会わなかったわけである。

途中入園の私と娘は、先輩ママさんと子どもたちに温かく迎えられた。子育てや仕事との両立についてアドバイスをもらうこともできた。

三歳になって体力もつき、すっかり元気になっていた娘は保育園で、病院に行く頻ひん度どの高い息子は融通のきく保育ママさんの所で。やりくり算段しながらも、日常をまわすことができた。

男女の愛情は、恋愛して結婚して頂点に達するものではなく、思いやりとか、包容力とか、やさしさを深め合って育てていくものだと、私たちは少しずつ学んでいった。

翌年、博史が申請していたフンボルト財団のフェローシップに選ばれ、早稲田大学に在籍のまま、ドイツで一年間、研究することが決まった。一緒に行くことに、ためらいはなかった。

東京でしがみついていたいほどの仕事状況ではなかったし、むしろ海外在住という新しい扉を開けることが楽しみだった。出発まで九カ月ほど余裕があったので、会社にも迷惑をかけずに済んだ。寄稿していた雑誌社や業界紙からは、ドイツ事情をぜひ送って、と言ってもらうこともできた。

博史も「家族で行けば、僕一人では見えないものも見える。女性の視点や子どもの立場からの考えも視野に入れる体験ができる」と、喜んだ。