8章 大阪女学院短期大学時代

大阪女学院短期大学入学

女学院に合格してから入学までの至福の休みを思いっきり楽しんだ。勉強したことをすべて忘れてしまうくらい私の脳みそはリラックスし“だぁらぁ~ん”としていた。家庭教師の先生、ごめんなさい。

実は私は心配していたことがあった。入学前、姉に「友達できへんかったらどうしよ……」と相談した。私にとってはとても大事なことだった。友達作りは私にとって初の試みだったからだ。

姉は「別にええやん、私なんて友達ほとんどおれへんでー、それにイジメられたら辞めたらええだけやん」と即解決してくれた。さすがは恐るべし姉だ。幸いなことに、そんな心配は全くなく自然と友人ができた。

女学院側は入学の日までに、職員用トイレを車いす用トイレに改造してくれ、運動場に上がるスロープもつけてくれた。私にとってはこのスロープは車いす用トイレと同じくらい大切だった。

それに、運動場には私の愛して止まない炭酸ジュースが売っている自動販売機があったのだ。これで入学準備はすべて整った!

学校側はできる限りサポートしてくれた。英語科だったので出席番号はアルファベット順だった。

私の名前は上原なので出席番号はUになる。だが、私は視力が悪かったのですべての授業を前の席に座らせてもらった。テストは一〇分延長で受けさせてもらっていた。

それに加え、ほとんどが外国から来たクリスチャンの教師たちだった。教師たちは私にオープンに接してくれ私の状況を理
解し協力してくれた。

例えば、エレベーターを私より先に乗ろうとした生徒がいた。その時に偶然に居合わせたひとりの教授が「困った人にはもっと思いやりを持って接することが大事だ」とその生徒にアドバイスをしてくれた。

その当時、私は電動車いすを使っていなかった。

最初はオリエンテーションで一緒になった子たちや先輩が車いすを押してくれていた。その後は、すべての移動は友達やクラスメイトたちが車いすを押してくれるようになった。

校内、クラスルーム、図書館、チャペル、トイレなど。本当に感謝だ。私は脚が全く不自由でトイレへの移乗もできなかった。なので、大きなプラスチックのカップを尿器として使っていた。

※本記事は、2018年9月刊行の書籍『車イスの私がアメリカで医療ソーシャルワーカーになった理由』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。