第三章 井の中の蛙井の中も知らず

日本宣教における本質的な問題

日本宣教における日本という問題は、殊更に「日本が問題」なのではありません。

聞かされる側の「日本人の問題」として全ての責任を転嫁させようとする聞かせる側の「日本人の問題」であり、欧米化したキリスト教に、自縄自縛に陥った者たちの前提と、宣教論における無自覚的捩れの方にも原因があったのではないかということです。

その「表」と「裏」の捩れの中で、我々もまたかつては原因と結果を逆さに考え「福音」とは何かという問題よりも、「キリスト教」とはこういうものであると教え込まれ、考えるよりも先に覚えることに専念した結果、何となく納得してしまったのです。

日本人の国民性をよく言えば、目にするどのような対象でも見極めることができる洞察であり、その反動として簡単に自分を見失いがちになる卑屈さなのかもしれません。

例えば教会内の空気に対してさえ、「ここは日本ではない、自分の居場所ではない」と難なく嗅ぎ分けてしまい、理由を聖書から発見する前に彼らは教会から去ってしまうのです。

逆に日本のことなど眼中にない側からすれば、この予期せぬ出来事を個人的な文脈や、人間関係の中のトラブルでしかないと解釈するのですから、いつまで経っても正解にたどり着くことができません。

キリスト教会を訪れる多くの日本人は、滅多なことでキリストに躓く者はおりません。求道者である日本人は「そこ」が日本ではないことに躓き、伝道者である日本人は「ここ」が日本であったことに躓くのです。

良くも悪くもそれが日本人の国民性だからです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。