第三章 井の中の蛙井の中も知らず

漢意(からごころ)である日本人、という意味

日本人が共有し日本人だけに通底するこの生得的国民性に初めて言及したのが、江戸の国学者であった本居宣長です。彼はこれを日本人の漢意と命名しました。

しかし日本人「が」漢意なのではなく、日本人「の」漢意です。和魂漢才の別名であり日本人の性癖です。今風に意訳すれば「舶来かぶれ」や「猿まね」、「島国根性」とも蔑称される日本人の意識構造であり、昨今の日本人における欧米化現象のことです。

しかし日本人の国民性がそうだとしても、何ら卑下するには及びません。その構造を改革し改善しようなどとはゆめゆめ思わないことです。それが成功した時点で、神の定めし日本人の存在理由も同時に消滅してしまうかもしれないからです。

そういう意味では、日本人こそある種の絶滅危惧種なのかもしれません。なぜなら日本人を代行できそうな民族は、この地上には見当たらないからです。

別言すれば日本人「の」漢意とは、万世一系の日本人にのみ神託された一子相伝の免許皆伝のことであり、史上最強の異文化翻訳装置の、そのバックアップ・システムの別名でもあるということです。

上代の日本人は「これ」によって、初めて自分たちの言葉である日本語というものを確定することができたのです。

音訓両読を建前とする日本人の漢意という仕掛けがなければ、逆説的に言えば絶対に成立不可能であった言語が日本語という言葉なのです。

今日の日本において「山」を「やま」とは読まず、「サン」としか読めない日本人がいるでしょうか。「魚」は「ギョ」であり、「うお」でも「さかな」でもないと異論を唱える日本人はいるでしょうか。これが日本の常識であり、即ち世界の非常識です。

人間の自然言語は三千とも五千とも数えられるそうですが、こんなことを違和感なくやっている国民は日本人だけなのです。しかし太古、シュメール人と呼ばれる人々が住んでいたウルの地から音訓両読を示す粘土板が見つかっているとのことです。

シュメール人の音訓両読は、今では言語学上の定説です。四千年前のパレスチナの地にいた人々と日本人の御先祖様たちが一体どういう関係にあるのか、またはないのか、夢のまた夢のような話です。

何しろシルクロード開通以前の話ですから、調べようもありません。ちなみにウルとは、アブラハムの父テラが住んでいた土地でもあり、当時世界有数の大都市があった場所です(創世記11:31、ヨシュア24:2)。

アブラハムはそこから出た者であり、もしやもしや、東を目指したと聖書に記されているアブラハムのそばめケトラと、その子供たちの幾人かが大和島根の瑞穂の国までたどり着いたのでしょうか(創世記25:1~6)。

ともあれ、上代の日本人はこの「日本語」によって「日本国」を建て上げ、初めて「日本人」に成り得たのです。爾来世界の文物を訓読しては咀嚼し、血肉とした上で再び世界中に提供し、貢献してきました。

「これ」が神の定めし「日本と日本人」の、この世界に対する存在理由なのかもしれません。

なにしろ日本人の漢意で解読できなかったものは「キリスト教」という宗教を除き、今までのところ一つもありません。ならば日本人のクリスチャンが訓読すべき対象こそ、キリスト教と称するこの世の「宗教」ではないのかという、提言です。

時代が下って和魂漢才が和魂洋才に衣替えしたとて、日本人が無魂無才にでもならない限り、やることは皆同じです。昔とった杵柄です。

明治維新における脱亜入欧への意識転換と変わり身の早さも、日本人「の」漢意があったればこそ、なのです。開国に対する日本人の意識も、アジア的なものからヨーロッパ的なものへの相対的宗旨替えなどというものではありません。

それは文明開化という美名の下に挙行されねばならない「普遍的」なものへの入信の儀式であると、自らに信じることができたからです。

その反動に伴って起きたのが、廃仏毀釈の騒動になってしまったという次第です。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。