【前回の記事を読む】泥と糞尿だらけになった身体。それでも、彼は誇らしげだった

社長の頼みに、健一は…

社長の紘一は、健一に向かって、少し遠慮がちに、

「健一君、これから警察に協力してもらううえに、本当にすまないんだが……、実は今日のことを報告書にまとめて、市の清掃課に提出しなければならないんだ。なんとか明日までに作ってきてくれないかな。この前みたいにワープロで」

と手の指でキーボードを打つタイピングの真似をしながら言った。健一は、そんなことならなんでもありません、とでも言うように、

「分かりました。明日持っていきます」

とニコニコして答えた。社長の紘一は、それを聞くと安堵したような顔をして、

「そうか、やってくれるか。それは助かる。ありがとう。悪いね」

と言ったかと思うと、自販機で缶コーヒーを買ってきて健一と内村に渡すと、

「それじゃあ、後は頼むよ」

と言ってサッサと帰って行った。

すると内村は健一に近寄ってきて、小声で、

「お前もお人好しだな。家に帰ってまで仕事をするなんて。それに大丈夫なのか、そんな難しそうなことを簡単に引き受けて」

と心配そうに、というより呆れたような口振りで言った。それに対して健一はニコニコして、

「社長の頼みですから。それに勉強にもなりますし、いいんですよ」

とサラリと答えた。この場合、確かに特殊な事例だけに決まったテンプレートがあるわけではない。当時まだワープロのみで、パソコンを持っていなかった健一は、ネット検索もできないので適当な情報を集めるだけでも、苦労することが予想された。そのうえ、手の不自由な健一は、文字入力のためのテンポイント―ブラインドタッチなどもできず、震える手でキーボードを一つひとつ打つので、普通の人の何倍も時間がかかった。

健一は、その夜帰宅してから風呂には入らずシャワーで済ませた。妻の良美が用意していた夕食は取らずに、バナナを一本食べると、濃くて温ぬるめのインスタントコーヒーをマグカップに半分入れてもらって(いっぱいに入れると手が震えて飲めない)、急いで机に向かった。