米軍横田基地

ここ西方市は、米軍横田基地を抱えた町でもある。あの悲惨で残酷さを極めた朝鮮戦争やベトナム戦争のときは、中継基地として多くのアメリカの兵隊が、この町にやってきた。

本土(沖縄県を除く)では最大の米空軍基地であるとともに、在日米軍司令部及び第五空軍司令部が置かれている極東における主要基地であり、輸送中継基地としての機能を有している。

また、日本の防空及びミサイル防衛の機能を持った、日米が共同で使用する基地でもある。

末吉が、横田基地で思い出すのは、一九五〇年六月二五日に勃発した朝鮮戦争だ。横田基地はアメリカ本土と朝鮮の前線基地を結ぶ一大物流基地となり、大型輸送機が引っ切りなしに離着陸していた。

日本は、さまざまな軍事物資をはじめとする支援物資を国内で大量に生産して、供給するアメリカ軍の軍事物資調達拠点、軍事物流拠点となった。また極東最前線の横田基地からは、多くの若き兵士たちが戦場へ向けて飛び立って行った。

そして、皮肉にも、朝鮮戦争は、泥沼化し休戦状態のまま、未だに和平条約が結ばれず、終戦に至っていない。

朝鮮戦争は最優先されるべき人間の生命の犠牲の上に起き、朝鮮特需などと言われる、日本経済にとって特異な景気をもたらした。それなのに、それを冷酷な学者たちは、

「この景気で日本は戦後復興の足掛かりをつかんだ」

などと平気で、しかも誇らしげに、その論評をメディアに発表する者がいる。

休戦協定が結ばれる一九五三年の七月までの約三年間で、アメリカ国防総省によれば、アメリカ軍は戦死者三万三六八六人、戦闘以外での死者は二八三〇人、戦闘中行方不明は八一七六人にのぼる。

また、約二四万五〇〇〇から四一万五〇〇〇人にのぼる韓国側一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は一五〇万から三〇〇万(多くの推計では約二〇〇万)とされている。