義父は、西原春夫。第十二代の早稲田大学総長である。昭和三年生まれ。あとひと月余りで九十歳を迎える。これまで山も谷も多い人生を歩んできて、八十二歳のときに配偶者を病気で亡くし「人生、もう何があっても怖くない。わしにはだいたいのことがもうわかってるから」と豪語していた。義父のこのときの胸中は、察することもできない。だが、さすがだ、と思った。「わかった」と、ひと言か。私も、心を強く持たねばならない。

娘とのLINE電話を切ったりかけたりしながら、帰国のための作業を続けた。気がゆるむとその場にへたりこんでしまいそうになるのを、奥歯を噛んでこらえた。飛行機のチケットを取り間違えるというあり得ないミスによって、目が覚めた。もうミスは許されない。

書斎の机の上に、勤務先のヴェニス国際大学関係の書類を、誰が見てもすぐにわかるように置いた。留守中、誰かが取りに来ることになるかもしれないからだ。みっともないことがあってはならない。博史に恥をかかせてなるものか。部屋を片付け、洗面所を水拭きし、ゴミを出した。その間、日本の友人たちから次々にLINEとメールが入ってきた。

「今朝のニュースで見た。恭子さんはヴェネツィア?」

「驚いた。気をつけて帰って」

「ニュースを見て、まさかと思った。しっかりしてね」

夫の事故死は、朝いちばんのニュースで報じられていたのだった。すべてに返信する余裕がなく、メールへの返事は後回しにさせてもらい、LINEにだけ返信した。

「これから日本に帰るところ。明日の午前十時三十五分に成田に着く予定です」

それに対して、

「日本は大雪です。気をつけて帰ってね」

と、誰もが返してくれた。まさか飛行機が遅れるほどの大雪だとは、そのときには思いもしなかった。

日本へ

午前三時。アパートを出た。エレベーターのない三階である。「重量超過料金を払えば済む」と覚悟して詰め込んだバゲージと、機内持ち込み制限ギリギリの大きさの手荷物とハンドバッグ。ここに来るときには、体重計で重量を量り、博史と相談しながら荷物を調整した。アパートには、博史が私の荷物も持ち上げてくれた。そんな思い出が、よぎった。すぐに、思い出に浸っている場合ではない、と自分を叱りとばした。

ヴェネツィア本島は南北四キロメートル、東西二キロメートルの、アドリア海に浮かぶ小さな島である。島内には大運河と無数の小さな運河が縦横に流れていて、小さな運河は「毛細血管」に例えられるほど、細くてうねうね曲がっている。その運河に沿って、細い路地が走っている。本島内では自動車も自転車も禁止。代わりに水上バスや水上タクシー、つまり船が早朝から深夜まで利用できる。だが、午前三時に運航している定期船はない。水上タクシーは乗場が遠いうえに料金が高いので乗ったことがない。空港に行くためには、島の先端にあるローマ広場まで歩くしかない。そこからは、空港行きのシャトルバスもタクシーもある。