第二章 千年の暁

映画「マルト神群」は類例のない独特の映画だった。これまでのキリスト教、ユダヤ教に基づく欧米の歴史大作とは全く異なる、気をそらさぬ展開と科学的解釈の妙とに裏打ちされた、インド神話の劇的で圧倒的な面白さ。ハリウッドの伝統的VFXの見事さ、常に人類社会と距離を置く神々たちの饗宴と葛藤、戦争の遠因と宗教のしがらみから逃れられないすべての人類の業。どこを切り取ってもどこから見始めても痛いほどの共感が全身を締め付ける。カラー画面、ワイドスクリーン、立体音響は近年の大作映画の定番となっているが、そのすべてさえも逆手に取りかねない超絶さと先進性。

ましてインド映画の定番だった、あの歌と踊りで要所を締めくくる「マサラムーヴィー」では決してない汎世界性に満ちた映画。神々たちも女性たちも、只々麗しく一点の狂いもなくうごめいていく。

主演の婆須槃頭はマルト達二十七役すべてを見事に演じきった。

神群とされる同一個性集団。その任務は人類からは謎に満ちている。彼らの乗る滑空する飛行体はUFOに他ならない。

地球創世の神々である地球外知的生命体としてマルト達はアーリア民族に接近する。地球側の解釈印象がやがて「リグ・ヴェーダ」となっていくわけだが、この神話があらゆる世界地域の神話の基盤となっていく過程すらわかる映画の醍醐味だいごみだった。世界映画史上の最高傑作とされるオーソン・ウェルズ監督主演の「市民ケーン」を若いみぎりに鑑賞して、自身の生理活動が変調をきたすのではと心配したほどの衝撃を受けたが、このたびの「マルト神群」はそれに勝るとも劣らないものとなった。

「市民ケーン」のバーナード・ハーマン作曲の付帯音楽は「気絶するほど素晴らしい」と激賞されたものだが、「マルト神群」の劇音楽は西洋音楽と一線を画したインド独自の楽器と旋律を用いていた。これが見事に壺にはまっていた。

地球外知的生命体としてのヴェーダの神々はスーパーホモサピエンスとして何億年のスパンで地球全体と関わっていく。大陸移動、形成まで自身の科学力を駆使して操り、操作していく過程には正直のけぞりそうになった。

そして次に始まるのが生物の創造である。地球全体を巨大な循環じゅんかんの場として無数の生物を作り出していくその描写は旧約聖書の「創世記」そのものである。科学者のみならず、芸術家までも動員して多々な生物を作り上げていく過程には正直、プロジェクトという言葉さえも虚しく聞こえるほどの壮大さだった。彼らは何かに取りつかれたようにその作業に没頭していく。途方もない長さの地球時間の中において。