「マルト神群」はインド映画としては破格の扱いで全世界に広まり、公開され続けた。ある国では映画を観た首相自ら衝撃の余り、その地位を投げ出して引きこもってしまう現象さえ見られた。

映画を観た一般の若い日本人男女はこう感想を述べた。

「何かとてつもない世界に引っ張り込まれたように感じました。私たちが何気なく暮らしているこの大地には、様々な意匠が込められていることを実感しました」

「今まで観て感動していた映画が、ほとんど嘘っぱちで、都合のよい出来レースだと感じ始めました。一言でいうのでさえ憚られる、すごい映画です。インド世界の深みを実感しました」

私、笹野はジャーナリストのはしくれとして次のニュースを書くこととする。ある情報からで、婆須槃頭がアメリカアカデミー賞授賞式会場に現れるというニュースがもたらされた。一気に世界中の映画ジャーナルがハリウッドに雲霞うんかのごとく押し寄せたが、結局彼は現れなかった。涯鷗州監督も姿を見せなかったが、私は一抹いちまつの不安を感じた。

あの「マルト神群」以来彼はインド映画界に居場所を見つけられずに次第に忘れ去られようとしていたのだ。

あの劇的大映画「市民ケーン」を作って以来ハリウッドから締め出されたオーソン・ウェルズの事案を彷彿とさせてしまう。二十六歳であの映画の監督主演をデビュー作として果たした希代の神童、ウェルズ。当時のアメリカ言論界の大立者、ウィリアム・ランドルフ・ハーストを映画で風刺したとして、ハーストの怒りを買ったのが原因とされているが、それ以後のウェルズの作品には何か才気の衰えを感じてならない。

涯監督はなぜ次回作を撮ろうとしないのか。彼は「マルト神群」のみを撮るために運命付けられた存在だったのだろうか。私はもう一度コルカタに行くべきだと思い始めていた。そのころ、私は一通の国際便を受け取った。あの婆須槃頭からだった

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『マルト神群』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。