第二章 忠臣蔵とは何か

国内に目を向けると、新渡戸稲造の名著『武士道』や「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」の名言で知られる『葉隠』が再評価されている。忠臣蔵についても以前のような勧善懲悪の大衆娯楽から、より史実に近い内容が求められる傾向にある。

また、昨今の歴女ブームも手伝い日本史がブームとなっている。忠臣蔵も本来の娯楽から史実として再認識されるようになり、今や元禄赤穂事件に由来する史跡巡りや討入りの現場となった本所吉良邸(墨田区両国)から高輪泉岳寺(港区高輪)までの約十二粁にもおよぶ赤穂浪士引揚げルートを辿るコースが人気らしい。

以前は年末が近づくと、忠臣蔵関連の映画やドラマが連日放映され忠臣蔵は年の瀬の風物詩として君臨していたものだが、昨今はそれ程ではない。しかし、十二月十四日には、北は北海道から南は九州に至る赤穂浪士に所縁の寺社仏閣において赤穂浪士による仇討ちを義挙として称える義士祭が営まれている。

なかでも播州赤穂の義士祭や高輪泉岳寺の赤穂義士祭には毎年数万人規模の人出があり人気の行事となっている。今日、討入りは十二月十四日としているが、これは江戸時代に常用されていた旧暦の十二月十四日のことであり、実際に討入りがあった元禄十五年十二月十四日を現在の新暦にすると一月三十日にあたる。

さらに言えば、討入りが午前三時過ぎだったことから、実際には日を跨った一月三十一日未明ということになる。赤穂浪士の討入りには雪がつきものであるが、それも一月末となれば納得がいく。実際の討入り前日に当たる十二月十三日は江戸に大雪が降ったものの、討入り当日の十四日は朝から雪は上がっており、しかも夜空は月明かりが眩しいほどの快晴であった。

『仮名手本忠臣蔵』

『仮名手本忠臣蔵』の初演は寛延元年(一七四八)八月十四日、大坂道頓堀の竹本座で人形浄瑠璃として上演されている。この年は殿中刃傷事件から数えて四十七年後、言い替えれば吉良邸討入りから四十七年目となり、赤穂浪士の四十七に繋がっている。さらに、『仮名手本忠臣蔵』の初日となった十四日が内匠頭の月命日であることと討入りの日であったことについては偶然ではなく、興行側は当然意図していたと考えられる。

ところが、この件についての興行側からの発信は全くないことや、裏付けとなる史料もないことから単なる偶然であるとする見方が支配的である。すでに記したように、この当時元禄赤穂事件を芝居に取り込むこと自体厳しく規制されており、公儀からの検閲を避けるために、興行側は全力で事件との関連を否定し、当然ながら証拠となる情報を自ら発するはずもなく、そもそも裏付けとなる史料など存在すらしていなかったと考える。

そのため、興行初日の件については深掘りされずに見過ごされてきた。唯一、忠臣蔵に造詣が深い文芸評論家の丸谷才一氏が著書『忠臣蔵とは何か』のなかで、この件について言及し、初演は浅野内匠頭の五十回忌と関連しているとの興味深い説を主張されているが僅かに年数が合わない。

しかし、そこに何か意図されたものがあったとする考えには同調したい。以上のことから『仮名手本忠臣蔵』誕生に至る経緯については、もう少し議論を深める必要がある。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。