第二章 忠臣蔵とは何か

『仮名手本忠臣蔵』

『仮名手本忠臣蔵』は、今日まで浄瑠璃と歌舞伎の双方で演じられてきた。芝居の上では同じ題名ではあるが浄瑠璃と歌舞伎とでは内容に若干の相違がある。例えば、浄瑠璃では幕が開いた直後に「頃は暦応(りゃくおう)元年二月下旬…」との口上から始まるが、歌舞伎では「頃は暦応元年如月下旬…」となっている。

この暦応元年は西暦に直すと一三三八年で、足利将軍による室町幕府でも南北朝時代(一三〇〇年代中期)であることが判る。芝居での時間軸を遠い昔にカモフラージュし、登場人物については浅野内匠頭と吉良上野介を南北朝時代に実在した塩冶判官と高師直に置き換え、将軍足利尊氏の弟直義を実名で登場させ、台本だけではあるものの足利尊氏、新田義貞、後醍醐天皇らを登場させ時代設定の整合性を図っている。

塩冶家浪人には、赤穂浪士を彷彿させる人物名を捩っており、元禄赤穂事件と同じく刃傷事件や討入りの場面が挿入され、作品全体としての『仮名手本忠臣蔵』は元禄赤穂事件そのものと言える。作者は、竹田出雲・並木千柳・三好松洛による合作で、同一メンバーによる作品としては、『仮名手本忠臣蔵』の前年に『義経千本桜』、更にその前年に『菅原伝授手習鑑』が上演されており、これら三作品は浄瑠璃三大名作と称され、歌舞伎としても人気の演目となっている。

ところが、竹田出雲は『仮名手本忠臣蔵』初演直前の延享四年(一七四七)六月四日に没していることから、上演時における竹田出雲とは初代竹田出雲の嫡男で、父親から竹本座の座本を引き継いだばかりの竹田小出雲こと二代目竹田出雲のことである。ところが、それまで作品の制作に深く関わっていたのは初代の方であったことから、作者として名前がある竹田出雲とは、初代と二代目両方を指していると考えられ、実質的には『仮名手本忠臣蔵』の作者は初代竹田出雲・二代目竹田出雲・並木千柳・三好松洛の四人ということになる。

あらすじは、時の将軍足利尊氏が敵対していた南朝方の新田義貞を討ち取り、その時に義貞が着用していた後醍醐天皇から下賜された兜を、社殿が完成したばかりの鶴岡八幡宮の宝蔵に奉納することになる。社殿の完成を祝して足利直義が将軍足利尊氏の代参として鶴岡八幡宮を参詣することとなり、その祝典の饗応役に塩冶判官高定が命じられる。

式の進行役には足利家の執事職高師直が任命される。その後、塩冶判官は高師直から謂われのない侮辱を受け続ける。耐え続けていた判官ではあったが遂に殿中において師直に刃傷に及ぶ。

しかし、近くに居合わせた加古川本蔵によって判官は抱き留められ止めを刺すことが出来ず師直は辛うじて一命を取り留める。この行為は喧嘩とは認められず、判官だけが即刻切腹を命じられ塩冶家は領地没収のうえお家は取り潰しとなる。判官切腹の間際に塩冶家家老大星由良之助が国元から馳せ参じると、判官は死の間際で由良之助に師直への鬱憤を晴らすよう示唆する。

後日由良之助は判官の思いに随い塩冶家浪人と共に師直の屋敷に討入る。見事師直の首級をあげると、由良之助は懐中より判官の位牌を取り出し順次焼香を始める。するとその直後に師直の家来たちが攻め入ってきたので、その場で一戦を交えたあとに亡君の墓前で切腹するため、浪士等は主君の菩提寺である光明寺へと立ち退く。ここで芝居は幕を閉じている。

芝居の中では、赤穂浪士を示唆する仕掛けとして、新田義貞が戦場で死んだときに、そばには四十七もの兜が散らばっていたとし、浄瑠璃の十一段目の合印の忍兜では、稲村ヶ崎にある高師直の屋敷を目指して大星ら塩冶家浪人が海から舟で上陸する情景を、「いろはにほへとと立ちならぶ 勝田早見遠森(とおのもり)……吉田岡崎ちりぬるをわか手は小寺立川甚兵衛……よたれそつねならむうゐの、奥村岡野小寺が嫡子。中村矢島牧平賀やまけふこえて、あさぎりの立ちならびたる芦野菅谷」と、いろは調の節に合わせて描写しているが、これらは全て外題のいろは仮名と連動させた四十七士を示唆しているが、歌舞伎にはこの描写が無い。少なくとも、塩冶判官を浅野内匠頭、高師直を吉良上野介、大星由良之助を大石内蔵助に置き換えると、作品全体の構成は元禄赤穂事件そのものである。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。