第2章 AI

第2項 属性

2 経験値

人は歳を取る。歳月を積み重ね、死に近づく代わりに経験を積む。その貴重な寿命の代価とも言える経験を、事後入力的にでなく自律的に、不死の人工知能は得られるようになったのだ。それも飽きることなく、疲れることなく。

人工知能は、解析済みのデータを受け取るだけでなく、自らデータを増殖し、検証し、有用に取り込んでいける。勝手に強くなるし、強さに歯止めを掛けることも出来ない。

『ジュラシック・パーク』の、恐竜の繁殖が確認されたシーンを思い起こした。テーマパークが一変、ホラー映画に切り替わる戦慄のシーンだ。

かつては、駒得、玉の固さ、大駒の位置関係等々、様々な局面の評価の指針となる評価関数を微調整するのがプログラマーの難儀するところとあったが、その問題も恐らくはじきに解決されてしまうのだろう。人工知能自体が、人工知能同士で対戦を繰り返し、経験を数値化して取り込み、評価関数を微調整しながら戦績の良い関数に徐徐に着実に改善していけば良いのだから。

ベイズ理論の項を読みきり、本を閉じ、“将棋を強くするという目的の達成においては、ソフト開発はもう行き着くところに行ってしまったのだな”、と私は考えた。以後、私はコミュニケーションという、勝負事よりもまったりとした局面への人工知能の参入に関心を移していった(完全には上手くいかないことを心の何処(どこ)かで願いながら)。

私の『電王戦シリーズ』への関心は薄れていった。

〈追記〉蛇口の前で

本稿を書き終えたあと、バーで居合わせた、子供に携わる仕事をしている女性に面白い話を聞いた。あるイベントで体操をした後に水飲み場の蛇口の前で子供たちが呆然としていた。今の水道は上下の動きで水を出すものが多いから、蛇口を捻るという動きに慣れていないのだという。

「コマも回せないのよ。」と彼女は言った。彼女の関心は、子供たちから失われた“捻る”という動きに向けられていた。手首が固いのだと。彼女は失われつつある子供たちの手首のしなやかさを懸念していた。

一方私は、子供たちがどうにか水を出そうとして蛇口を叩いたり押したり引いたり、要するに試行錯誤をせずに数人立ちつくしている光景を興味深く浮かべていた。喉が渇き水を欲しがる子供たちの水道の前での呆然は、最も露(あらわ)な現代の人間らしさを子供の素直さで現したとは言えまいか。試行錯誤も機械に取って替わられる世界を、もう既に子供はいち早く感じ取り感化されてしまった(同期した)のかもしれない。

事象の変化を頭で理解するには時がいる。革新の帰結は遅れて来る。しかし子供はその素直さゆえにそのままに真に受け、在りのままにそれを体現することがある。

子供は時に未来の予言者だ。子供の表情が明るい社会の未来は明るいし、その逆も然(しか)り。教わるまでもなく自ら立ち上がる赤ん坊から程なく、創意工夫の本家たる子供たちがこの在(あ)り様(よう)なら、人工知能の高速無限の試行錯誤と学習と導きは、人間の試行錯誤に代替し、人間の創意工夫を日常から後退やがては消失させてしまうのかもしれない。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。