管理人に話をつける。部屋は淳にも懐かしい。八汐は落ち込んで、デスクに突っ伏して溜息ついている。家電は持っていかない。ベッドは?

「持っていかない……淳さん……」

「……聴いている」

「過去を、全部、消せるといいね」

「……過去の結晶が今の自分だから……忘れたいか、忘れられないか……選えり分けるか……難しい……」

「……荷物捨てて、軽くなってハッピーでいいか……一人で」

淳は黙って部屋中視て回って八汐の傍に座る。

「……映画ばっかり観ていたって言うから……ないじゃない」

「……あなたって人は。連想がどっち向いて閃くのやら」

突っ伏したまま

「安手のAVが要るほど飢えてない。八年間の前半は……同棲していた……美大の同級生。二人で、金がなくて。アルバイトして時間もない。一生懸命、夢見て。モデルもやってくれて卒業制作で賞獲った。アガペー。等身大。衣装も花も買えないから、裸体……きれいだった」

僕はへたれだから。洟を啜り上げる。未熟だから、自分だけで埋めてしまえない。

「妊娠したんだ……済まなさそうに、生理が止まったと……済まなさそうに……可哀想に……僕は……卑怯だから……何も言わなかった。アガペー売って……そのはした金であいつ田舎に帰った……」

またひとしきり嗚咽おえつして

「僕、父親だろうか」

「会いたい?」

淳の声は優しい。

「……会わす顔がない……」

「僕は忘れちゃいけないんだ……この部屋離れちゃいけないんだ……一人で幸せになっちゃいけないんだ」

日暮れてくる。明かりを灯す。ラ・ボエームさながら。八汐が消灯して、帰ろう……

「わかっているんだ……会いに行ったところで……何回も考えた……子供がいてもいなくても……再婚していても一人でも……あの人を捨てた事実は動かない」

帰り道、買物して、二人で飯炊いて鰈を煮付けて牛蒡ごぼうサラダと豆腐の味噌汁で食事した。質素で贅沢だった。淳は考え深気に

「その人、幸せだといいね」

「アガペーの人、自分のせいであなたに不幸でいられたくないでしょうね」

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『フィレンツェの指輪』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。