第2章 AI

第2項 属性

1 恐怖の3要素

数年前になる。私は、人工知能の本を読みながら、主にプログラミングが必要な時期・段階の解説において、人間の思考について思いを巡らせていた。手作業でコンピューターに能力を覚えさせていく段階においては、プログラミングは人間の能力を個別的に1つずつ、野菜の苗を畝(うね)に植え付けるように、コンピューターに覚えさせ(内在化し)ていく。

この段階におけるプログラマーの試行錯誤の記述を読むのはとても面白かった。“我思う、ゆえに我あり。”自分はどの様にして物事を知覚し、考察し、表現しているのか。

自己を知るという意味ではデカルト哲学的趣向に近かったかもしれない。ふだん我々が有機的に無意識に複合的に脳を働かし行えていることを、分解し断片的に1個の能力として抽出し、それをコンピューターに行わせる。

それは子供に何かを教えることにも似ているし、自身が生身の脳でさりげなく行えていることにおける思考の働き方の再検証にもなる。不利になると無駄に駒損を重ねても手番を渡さないようにする指し回し(“水平線効果”というそうだ)などは、覚えたての子供の指す将棋みたいにも見える。

映画『ジュラシック・パーク』の前半で科学者たちが恐竜たちに注ぐ眼差しと同様に、能力が自分たちよりも劣るか、自分たちの管理支配下にあると思えているうちは、違和感を含んだ少々異様な仕草というのは可愛げをもって映るものなのかもしれない。

着々とプログラマーは人工知能に将棋に勝つための能力を内在化させてゆく。その能力は、過去の膨大な棋譜データの記憶能力であったり、あらゆる変化を偏見なく図的に羅列する能力であったり、終盤になったときの詰みを見つける正確かつ迅速な冷徹なる収束能力であったりした。

しかし反面、個々の局地戦が拡散し他の局地戦と融合し混沌とする中盤戦(これは囲碁の方が想像しやすいかもしれない)に於いては、コンピューターに教える事が難しく、人間に一日の長があるとされていた。序盤は過去の棋譜の集積の内から優れたものをそのまま採用すればよく、終盤は終わりが近い分、計算をするのに必要な下地となる情報量も減るのだろう。要するに、未知の混沌とした局面を切り開く、人工知能の人工知能による判断能力は軽く見積もられていた。

故米長邦雄永世棋聖はそのコンピューターの隙(すき)を突く勝負師としての心理と覚悟を『われ敗れたり』の中で見事に表現されていたし、漫画『ハチワンダイバー』の菅田がゲームセンターの将棋筐体と戦うシーンも同様に、明晰にとても面白く描かれている。

コンプレックスをバネに上杉達也のコピーに徹し、堅実に正確に投球を行うが、野球というものの理解における深みに欠け、総合力的に上杉達也に敗れる吉田くん。旧くは野球漫画『タッチ』に描かれていた構図(もちろん、『タッチ』に於いては“人対人”だ)に人工知能と棋士の対戦も落とし込み、比較的のどかな心持ちで眺めていたのかもしれない。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。