第2章 AI

第1項 人工―知能

人工知能。この4文字が世に馴染(なじ) みすぎたのかもしれない。それは何者なのか。ツールなのかエイムなのか、或いは主体なのか。理解するより前に言葉として定着し、機能としてサポートし、気付けばすっかり生活の一部になってしまった。

この取扱説明書のない化物(是非にあらず、少なくとも能力に於いては、だ。)のような機能を、我々はもっと深く考察すべきではないのか。

「飛行機がなぜ空中に浮くのかは、未だ様々な仮説があるに留まり、厳密に言えば正確な理論付けはされていないが、それでも欠くことなく毎日毎日、何十年にも渡り雨の日も風の日も飛行機は飛び続け、人を物を、遠隔地に少なくとも相対的には安全に輸送している。テクノロジーとはそういうものだ。」と昔、行きつけだったワインバーの誰かから聞いたことがある。

私は飛行機の飛ぶ原理を相変わらず仮説すら理解していないが、飛行機には抵抗なく乗っている。しかし、例えばスマホでたった一言の単語を打っただけで、たちまち広告やら関連用語やらが出てきてその内の一つがたまたま(と、思いたい)私にとって有用なものである時、不思議と私は、喜びよりは奥底から来る怖れにも近いような違和感を覚えてしまう。

「人工知能。Artificial Intelligence.」

改めて、イメージや簡易な便宜的理解を離れ、より客観的に言葉を正確に理解してみるために辞書を引くと、こうある。

「人工知能=コンピューターを使って、学習・推論・判断など人間の知能の働きを人工的に実現したもの。」

より精緻に、言葉を分解してみる。


「人工=人手を加えること。人の手を加えて作ること。」
「知能=物事を判断したり理解する力。」

繋げると、人工知能=「人の手を加えて作られた、物事を判断したり理解する力」となる。分解の甲斐あって、こちらの方がしっくり来た。

その力が、主体の様な顔をしているのは不気味なことだ。例えば、“北島康介の脚力”なのであって、脚力は泳がない。しかし、人工知能(考える力)が将棋を指しているという幻想は、脚力が泳いでいるという表現とは異なり、わりと自然に受け入れられてしまう。

何故だろう。ピストルは人を殺さない。

そう、人工知能を考えるに当たってこの問いが、私にとって最も重要な問題だ。人工知能はレスポンスみたいな事もするからつい問い掛けてみたくもなる。

“Hey, AI. Who are You?”
或いは、
“What is You?” or “What is this?”

いずれの掛け声が正確だろうか。幻想ではなく、AIは現実に将棋を指しているのだろうか?

この問いに答を出すには、人工知能をより注意深く観察する必要があるだろう。将棋と棋士をより深く知ることも求められよう。なので、今は結論を留保して先に進む事にする。
 

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。