負けず嫌いで、興味のあることには、のめりこむ質の父は、学生時代はずっと剣道に打ち込んだ。学生の西日本大会で優勝したこともあるらしい。最終的には七段教士という段位を授かるほどになった。

素朴で実直、行動力があって、我親のことながら好もしい人格と感じていたが、鋭い眼光と、厳格さが怖くもあった。母は火の起こし方も、ご飯の炊き方もまるで知らずに、父の所へお嫁に行ったそうだ。

「一緒に暮らすようになって、一から家事を教えたんよ」

と、生前、新婚時代を思い出しながら、父が懐かしそうに、相好を崩して話していた。しかし、そんな二人の新婚家庭の平和な時間は、長くは続かなかった。

結婚の年、十一月に最初の子供、私の兄が誕生したが、翌二十年三月には、アメリカ軍の、大都市に対する無差別爆撃が本格化した。八月に、広島と長崎に原爆が投下され、そのまま敗戦を迎えるまで、立て続けに攻撃を受けたのだった。

三月の東京大空襲に始まり、名古屋、大阪、神戸は、次々にB29の爆撃を受けた。神戸市は、三度の大きな空爆があり、母の実家は、二度目の爆撃で、当時家にいた家族全員が命を落としてしまった。

助かったのは、有馬に疎開させていた、母の祖母と小さい弟と妹の三名のみで、在宅の両親、妹と弟、医院で働いていた看護婦などが全員同時に命を失くしたのだった。

その日、父親が、初孫の顔を見に、昼頃に訪ねてくる約束だった。待ってもやって来ない。三時になっても姿を見せないので、不安に駆られて、母が実家を訪ねて行って、一帯の惨状に愕然としたようだ。

実家のあった場所が確認できないほど建物は倒壊し、焼夷弾によって町は燃えつくされていた。路上に荷馬車が馬ごとひっくり返っていた光景が忘れられないと語った。

探し回ったが、その日は一人も家族を見つけることができなかった。翌日、近所のお寺に遺体が集められているという話を聞いた母は、近くのお寺を探し回り、父親を見つけ、他のお寺で母親を見つけ、というように、たくさんの死体の中に、八名の家族全員を発見したと話していた。

家族の安否を訪ね探し、全て亡くなって見つかった母の、長い一日を思うと、一瞬で突き落とされた地獄の酷さを感じる。

母は結婚後、実家から離れた場所に住んでいたため自身は難を逃れた。しかし、それまでの暖かく穏やかな人生が、この瞬間から一変してしまった。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『乙女椿の咲くころ』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。