第一章「さいたま市」に誕生、幼・小・中・高と過ごした時期

人の一生は長いようで短く、短くあるようで長く感じられる。

僕もこれまで生きてきて、色々とあったが、現在老後は落ち着いてきている。僕の生まれは埼玉県の浦和市なのだけれども、現在の「さいたま市」に当たる。

まず、最初に生を受けた事自体が、大きな変動であるが……。

僕が生まれた日は8月だったから、連日物凄い暑い日が続いていた。聞いたところに依ると、僕は顔や額に汗疹(あせも)のよりが出来て痒(かゆ)がったので、母は近所の人に、桃の木の葉っぱをいただき、くしゃくしゃにした物を擦(こす)り付けて治療したそうである。

それから僕は、末っ子で上4人は全部女の子であったから、幼い頃に着せられた服は全てそのお下がりで、それを着ていると僕は女の子の様に見えたそうである。そんな幼い頃の写真も残っている。

当然父は40歳になって産まれた長男の僕の事を、大変可愛がった。僕は父に連れられて、出掛けると、他所(よそ)の人にお孫さんですか?と聞かれる事が多かった。

それで、僕が家に帰って母に「お孫さん」って何?と聞くと……母はただ笑うばかりであった。―――

5歳まで浦和で過ごして、その後に家族全員、父・母・兄弟姉妹4人と僕との、合計7人で大宮市(現、さいたま市見沼区)に転居した。

その時分からしか僕の幼い頃の記憶は無いが……時代的には僕の人生は昭和の時代の真ん中の頃から始まったのである。僕は5歳になって地元の幼稚園に入園して、1年間楽しく過ごした。

一年保育といって小学校入学前に1年間幼稚園に通ったのである。僕はいつも開園時間よりかなり早くから通園して行って、園内のブランコを漕ぎながら、大きな声で歌を歌って、開園の時間まで待った。

毎日毎日その様な事を繰り返して幼稚園時代は過ごした。その幼稚園だが、絵を描いたり、お遊戯をやったり、色紙を切ったりして何か形を作ったような事しか僕には記憶はない。

幼稚園の通信簿みたいのには、健康状態は非常に優良であり、活発で皆と良く打ち解けて遊ぶ子供であり、また身長も体重も一緒に通園している同じ年齢の他の子供達より、チョッピリ大きめであった……と記載されている。

通園日数も、2、3日風邪か何かで休んだ以外は、僕はちゃんと毎日通っていたのである。その幼稚園の最大のイベントというか行事の思い出は、東京の上野動物園に遠足に行くという事であった。

バスで行ったのか? 電車で行ったのか? 僕はもう忘れてしまっているが、上野動物園の象さんの檻(おり)の前に皆集合して記念撮影をした写真が、今でも僕の手元に残っている。