中井1

第三セット。中井は無謀な決断をしてしまう。

中井の誤った決断は、奇麗なウィナーを重ねて、美しく勝つ事だった。カラスと真っ向勝負のストローク合戦をして打ち勝ち、チェコの応援団は勿論、裏切り者の日本人観客を黙らせてやろうという腹積もりだった。

中井の判断基準はこうだ。

1.サービスダウンしたとはいえ《5-2》ファイブツーと圧倒的にリードしている

2.このゲームのサービスダウンはたまたまで、気持ちを入れ替えれば簡単にリセットできる

3.俺は元気、カラスはヨレヨレ

4.観客は俺を裏切った。俺に応援なんかしちゃいない。仮に揺さぶり戦法で勝ったところで試合後はブーイングするだろう。だったらお前らの望み通り『正々堂々』戦って勝ってやる、

だった。

すべてが間違いだった。真実はその真逆だった。

ただその真実を「知った」のは敗戦後で、真実を「受け入れた」のはそのずっとずっとあとだった。

この事が中井にとって悲劇だった。狂い出した歯車はもう戻らない。中井の最初の誤算はカラスのストローク力が落ちていない事だった。

確かに届かないボールはどうしようもないが、狭い範囲でもヒットした打球は(打点まで追いついてヒットさえすれば)中井にとって脅威のカウンターショットとして返ってくる。

中井はこのショットを恐れるがあまりラインギリギリを狙い過ぎ、結果アウトになってポイントを失っていた。これはカラスにとって好都合だった。

ラインギリギリのショットは追えないので追わない。追っていないので余計な脚を使っていない。結果体力の(僅かではあるが)回復とワンポイントという二つのご褒美を頂戴していた。

中井は意地になってハードヒットを繰り返す。中井の様な天才タイプは、微妙なタッチやフィーリング重視のプレーが中心になるので、どちらかというと試合を通じてハードヒットの割合は少なくなる。一撃必殺のショットは必要無い訳だ。

必要の無い事は多用しない。多用しない事は不得意になる。さすがの天才中井もこれに関しては例外ではなかった。

中井にとってフルショットを連打する事は、ある意味オーバースペックだったのだ。それでも中井にしてみれば疲労困憊のカラスは対応可能と踏んでいた。

打ち切れる、勝ち切れると過信していたのだった。中井は蟻地獄に陥る。

次の誤算は《5-2》ファイブツーというゲームカウントである。このカウントは野球やサッカーでいうところの5対2の、3点差という意味ではない。

たった、たったワンブレイク差に過ぎない。ファイブツーでカラスサービスゲーム。もしこれをキープして次をブレイクすればファイブフォー。これでイーブンになってしまう。

引っ込みのつかなくなってしまった中井は、強打中心のゲームプランを修正できず、ミスにミスを重ね続ける。あー、そしてそして事実そうなってしまった。

気が付くとゲームカウントは《5-4》ファイブフォー。一応、一応中井リードだが、流れ、勢いは明らかにカラスにあった。

チェンジコート。会場がザワつく。