中井①

中井は第三セットを圧倒的にリードする。

カラスは立ち直れない。通常セットを捨てたあとの次のセットの立ち上がりは、気持ちも体もリセットしてスタートさせなければならないが、今日のカラスにそれはできなかった。

第一、第三ゲームは中井がブレイク。第二、第四ゲームの中井サービスゲームは楽々とキープ。半ばやけくそ気味で臨んだ第五ゲームはカラスのサービスエースが二本あって何とかキープ。ゲームカウントは中井から見て《4-1》フォーワン。

中井はゲームプランを第二セット終盤から一切変えていなかった。前方にドロップ、誘き出したところで後方へロブ。決まればそれに越した事はないが、決まらなければ、それの繰り返しである。強打する気は更々無かった。その打球を追うカラスの表情は苦悶に満ちて、悲壮感漂うものだった。第二セットの終盤の様に、完全に諦めた動きこそしないものの、パフォーマンスの急激な低下は誰の目にも明らかだった。そして遂に、遂にその脚はパンクする。「痙攣」である。

メディカルタイムアウト後もその脚は回復しなかった。周囲の目から見て棄権した方が良いのではないかという程の脚の引きずり具合だった。カラスの試合継続の原動力は執念だけだった。

この時点で試合の結果予想に興味を持つ観客はほとんどいなくなっていた。心配のウエイトはむしろ台風で、その接近と帰宅の電車の時間を計算する事の方が大事になってきた。ただその時、試合を諦めていない一角が観客席の上の方、つまり安い席の部分にあった。チェコスロバキアの応援の一団である。

一団といっても一人一人の顔がはっきり分かるくらいの十数名程度だ。だがその十数名はその他の日本人の観客を圧倒するほどの迫力を持っていた。彼らはコートチェンジ後、レシーブポジションに向かうカラスにあらん限りの拍手と励ましの声援を送った。

判官贔屓にも似た心境であろうか、僅か、僅かではあるがそれに引っ張られる形で拍手を送った日本人もいた。ただまだこの時点では小さなウェーブだった。そのさざ波はゲーム再開後、中井が第一ポイントを取ったあたりから中波程に変化する。中井は相変わらずドロップショットでポイントを稼いでいる。その時だった。一団がザワめく。

「つバベリぃ!」何を言っているのかは分からない。だがとにかくブーイングだ。

文字通り「ブー!」という音もあったが、彼らのほとんどが間違いなく明確な言語で何かを訴えている。そしてその身振り手振りが中井に対する抗議のサインである事は誰の目から見ても明らかだった。

「卑怯者!」

そう言っている。全員一致していた。これ以外の選択肢はなかった。会場内のすべての日本人が、そのすべての脳裏に浮かんだ言葉だった。観客の日本人の中でチェコ語を理解できる人間は皆無だ。

ただ同じテニスを愛する者同士に翻訳者は必要無かった。実は日本人の観客の中にも潜在的に中井のプレーに不快感を持つ者も少なくなかったが、露骨に表現するのは日本人気質として憚られた。

だがこのチェコの応援団のパフォーマンスに後押しされ、その不満を顕在化する者もちらほらと出始めてきたのである。