今まで何度も会場が騒めいたが、これまでのどれとも異質の悲壮めいた騒めきだった。中井の三つ目の誤算、いや誤診は日本人観客の心情だった。

実際は心の奥底まで「カラス勝て!」と思っている者は誰一人いなかった。

「カラス頑張れ」は、いい(内容の)試合をして欲しいという意味に過ぎないのであって「中井負けちまえ!」という意味では決してなかった。

観客は、最初から最後まで中井の勝利を信じて疑わなかった。本当の本当は中井を応援し続けていたのである。

ベンチに腰掛ける中井は、残り少ないエネルギーの中、頭をフル回転させる。自分なりに戦略の、最後の立て直しを図ろうとしていた。中井の胸中に棘の様に突き刺さって離れないフレーズが『正々堂々』だった。中井はこの言葉に縛られていた。

モヤモヤが晴れないままに休憩時間切れとなり、第十ゲームが始まってしまう。このゲームは両者グダグダだった。中井のプレッシャーとは異質ではあるが、カラスもまた大きなプレッシャーに襲われていた。

大きくリードされ、開き直った精神状態で臨んだプレーは結果もよくウィナーを取れていたが、このゲームはそうはいかなかった。キープしてファイブオールとなれば逆転優勝の可能性が見えてくるが、ブレイクされればそのままゲームセットになってしまう。

勝利の色気と敗戦の恐怖、その両極端の狭間で心が揺れ動くカラスはミスを重ねる。一方の中井もまた『正々堂々』を消化しきれず同じ様にミスを重ねていた。

お互いミスの連続でデュース、デュース、またデュース。ただこれまでのデュースはすべてアドバンテージカラス。

反対の、アドバンテージ中井、つまり中井のマッチポイントにはならなかった。中井は心の中で反芻する。

(そもそも正々堂々って何だ? 俺、何か悪い事したか? いやいや何もしていない! ドロップショットもロブショットも勝利の為の正当な手段だ。何を恥ずべき事があるんだ)

やっと気が付いた。だが遅かった。中井の最後の誤算。俺は元気、カラスはヨレヨレ、ではなかった。四度目のデュース、中井はやっと第二セット終盤から第三セット中盤まで使っていたドロップリターンを、思い出したかの様に放つ。

この試合、無心で、無欲で、迷いの無いショットはこれが最後だった。

打球の勢いを殺しネットギリギリを越えたそのボールは、二度目のバウンドも三度目のバウンドもカラスのラケットに触れる事は無かった。カラスは追わない。